西南戦争の勃発
1874年に下野した西郷隆盛は士族たちを統率するため私学校を設立しました。鹿児島県令の大山綱良も私学校に協力。鹿児島県で最大の勢力となっていました。
1877年、私学校生徒が鹿児島県内の弾薬庫を襲撃。これがきっかけとなって西南戦争が発生しました。西郷率いる鹿児島県士族はおよそ3万人。彼らは士族特権を奪う大久保らの政策に反発し挙兵したのです。
当初、大久保は鹿児島県士族が反乱を起こしても西郷は参加しないと考えていたふしがあります。しかし、西郷の参戦を知ると直接会談を試みますが大久保の殺害を恐れた政府首脳の判断で取りやめとなりました。
7か月以上にも及ぶ戦いで西郷軍は潰滅。徴兵制軍隊が士族を打ち破ったことで士族の没落は決定的なものとなりました。西郷の死を聞いた大久保は号泣したと伝えられます。政治的な意見は違えども、同じ郷中で育ち維新回天を成し遂げた同志の死は大久保を嘆かせずにはいられなかったのでしょう。
大久保の死後も、明治政府の改革は続いた
西南戦争の翌年の1878年、大久保利通は東京紀尾井坂で暗殺されます。暗殺の理由は大久保が政治を独占し国費を無駄に使っているとのことでした。しかし、大久保は政策実行のために借金をしたことこそあれ、私腹を肥やしたり横領したりといったことは全くありません。最後まで、公人としての責務を全うしたのです。
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