幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

明治の世を切り開いた不世出の政治家「大久保利通」の生涯をわかりやすく解説

版籍奉還と版籍奉還の実行

大久保は新政府が成立すると参議に就任します。参議は新政府の中心となる役職で、薩摩・長州・土佐・肥前の出身者で占められていました。そのころの明治政府はまだ強大な存在ではありません。

幕府を倒したといっても、全国の4分の3は大名たちが支配する藩だったからです。政府を中心とした中央集権国家をつくるには藩をなくす必要がありましたが、廃藩を強行すれば大きな反発が予想されました。大久保は木戸孝允とともに段階的にことを進めようとします。

1869年、大久保らの働きかけにより薩長土肥の4藩主が土地と人民を天皇に返す版籍奉還を実行。新政府は改めて藩主たちを知藩事に任命して政治を継続させます。

1871年、新政府は藩を廃止して県を置く廃藩置県を実行。すでに、藩ごとの政治に限界を感じていた諸藩は大きな抵抗を示すことなく廃藩置県を受け入れました。各藩が廃藩置県に応じた背景は、莫大な借金でした。新政府は借金を肩代わりすることで廃藩置県を成功させたのです。

岩倉使節団への同行

1871年12月、岩倉具視を正使とした岩倉使節団が欧米に向けて出発しました。政府要人や留学生など100名以上で編成される大使節団です。大久保は副使として使節団に加わりました。使節団の目的は幕末に結ばれた不平等条約の改正です。しかし、改正交渉は全くと言ってよいほど進みません。

使節団は各国の制度の調査に時間をかけます。使節団はアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアと欧米列強を次々と訪問。アメリカやイギリスでは最先端の産業を学び、ドイツでは時の人といってもよいドイツ帝国宰相のビスマルクが主宰する晩さん会に参加しています。

当時のドイツは普仏戦争で勝利し、国内統一を成し遂げるなどヨーロッパでもっとも勢いに乗った国でした。国内統一直後という点では日本と似た部分がありますね。ビスマルクは使節団に帝国主義の世界で生き抜くためには富国強兵が必要だとアドバイスしたといいます。帰国後、大久保と中心として国内産業育成のための内務省が設立されました。

 

内務卿大久保利通

1873年、大久保をトップとする内務省が設立されました。ビスマルク式の強い政府を作るためだと考えられます。内務省の権限は巨大なものでした。産業を育てる殖産興業、鉄道や通信、警察など国内政治全般に大きな影響力を持つ省です。

大久保は産業を育てるために各地に官営工場を設置。世界遺産ともなっている富岡製糸場が代表的官営工場です。財源として土地の所有者に税をかける地租改正、小学校を設置し子供を通わせる学制、武士に代わって満20歳以上の男子に兵役を課す徴兵令など近代化に向けた政策を矢継ぎ早に実行しました。

この時期、大久保率いる内務省が大きな権限で政策を実行したことから、「有司専制」との批判を浴びます。しかし、大久保はひるまずに新政策を推し進めました。大久保の中には強大な欧米列強に飲み込まれる前に改革を実行しなければならないという強い決意があったのかもしれません。

盟友、西郷隆盛との決別

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大久保をはじめとする明治政府の改革は急進的なものでした。特に、江戸時代270年の間支配者として君臨していた武士たちにとっては自分たちの存在意義を否定しかねない内容を多く含むものでした。新政府に反対する武士たちは不平士族とよばれます。やがて不平士族たちは明治維新の功労者たちの周囲に集まり反政府の動きを見せました。西郷と大久保もこの流れに巻き込まれることとなるのです。

征韓論争と明治六年の政変

明治維新後、日本と朝鮮の関係は不安定になっていました。明治政府は朝鮮に対し、国交を望む交渉を行いましたが、鎖国政策をとっていた朝鮮は日本側の文章が江戸幕府と違うことを理由に交渉を拒否。

また、日本国内では明治政府に対する士族の反感がたかまっていました。西郷隆盛や板垣退助江藤新平らは士族たちの不満をそらすため朝鮮を攻めよという征韓論を主張します。

ちょうどその時、岩倉使節団が日本に帰国。富国強兵に勤めるべきと考えた大久保は新しい戦いを起こすことに断固反対。西郷らの征韓派と激しく対立します。

主張が受け入れられないと悟った西郷らは1873年に政府の役所を辞め、一斉に帰郷しました。この事件を明治六年の政変といいます。地元に戻った征韓派の有力者は不平士族たちがまとまる核となりました。

相次ぐ士族反乱

四民平等や廃刀令、秩禄処分などで精神的にも経済的にも追い詰められていた士族たちは各地で政府に対する反乱を起こしました。これらの反乱を士族反乱といいます。

最初に反乱を起こしたのは前参議の江藤新平でした。江藤の周りには1万2000人もの士族が結集します。佐賀の乱発生の知らせを受けた大久保は直ちに鎮圧を指示、自ら九州に乗り込んで戦争の指揮を執りました。

佐賀の乱の鎮圧後も西南諸藩で士族反乱が続発。1876年には熊本で敬神党の乱、山口県で萩の乱、福岡で秋月の乱が発生しましたがすべて鎮圧されました。この段階で反乱に参加していない征韓派の大物は二人を残すのみです。

一人は土佐の板垣退助、もう一人は鹿児島の西郷隆盛。板垣は武力で政府を倒すことは困難であると考え、自由民権運動をおこしました。西郷はどう動くのか。世間の日人々がかたずをのんで見守ったのです。

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