日本の歴史江戸時代

徳川吉宗が行った大改革「享保の改革」とは?わかりやすく解説

暴れん坊将軍や米将軍としても知られている徳川吉宗。しかし、吉宗が将軍に就任した当時、幕府の財政は破綻しかけという状態にありました。 吉宗はこの状態をいろいろな財政改革によって立て直していくのです。 今回はそんな吉宗な行った改革である享保の改革について見ていきましょう。

享保の改革が誕生した背景

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享保の改革が行われるようになったきっかけはこの当時の政治体制からの脱却と江戸の町の物価統制にありました。

果たしてどうして吉宗はこの二つに目を付けたのでしょうか?まずは享保の改革を行い始めた理由について解説していきたいと思います。

側用人政治からの脱却

元々江戸幕府は側用人による政治体制が敷かれていました。

そんな側用人の一人である新井白石が行った正徳の治では改鋳を行って金貨の金含有率を戻したりするなどの引き締めを行いましたが主だった成果は開けられることはなく、幕府の財政は良くなることはありませんでした。

そして時代は8代将軍である徳川吉宗の時代に突入することに。

元々紀州藩の人であった吉宗は紀州藩の財政を改善させた実力派。吉宗は新井白石や間部詮房といった側用人をクビにして将軍自ら行う政治に変わっていくことになりました。

この政策をいわゆる享保の改革と呼ぶことになります。

徳川吉宗の政策は新井白石の政策を否定して改善されたもののように捉えられがちですが、この傾向はただ単に新井白石が嫌いなわけではなく長崎新令における輸入規制を続行させるなど必要な政策は継続していました。

幕府にとってどれが良い政策なのかを正確に見抜く目を徳川吉宗は持っていたのかもしれませんね。

諸色高の米価安

享保の改革の最重要課題が米の価格の安定でした。

幕府は天領から取れる年貢を財源として政治を運営していましたので、お米の値段が安定しないことは幕府にとったら政策を行うことが難しくなる点もあり、非常に困ることでもありました。

また、この当時は新田開発などによって米の生産性が上がってきた時であり、そのため市場では米が飽和し米価が安くなる事態になっていったようです。

その一方で経済活動は徐々に活発化していくようになり、人々の生活が豊かになっていくと今度は商品需要が上がります。需要が上がれば物価が上がるのも当然のことです。

このように米の価格は下落しているのに対して色々な物価がたかくなっていくことを諸色高の米価安といいます。

この諸色高の米価安では米価が安くなって幕府財源は低下しているのに他の物価が高くなっているので幕府は財政があまりないにもかかわらず、費用がかかるようになり、財政的に困難になりました。

さらに役人にとっても物価が高くなることは収入が自然に減ることにもつながるため役人の困窮にも繋がることになったのです。

このような事態が起こったことによって享保の改革が行われるようになったのでした。

享保の改革の内容

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さて、吉宗の課題は物価の安定と側用人の政治からの脱却でした。吉宗は出来る限り幕府の財政を改めてそしてその財政を使って物価を抑えて庶民の生活を安定させようとしたのです。

次はそんな吉宗が享保の改革でどのような政治を行っていったのかについて見ていきましょう。

倹約令

では、享保の改革における財政再建のための政策を一つずつ見ていきましょう。

享保の改革の最初の改革は倹約令。

要するに「無駄遣いを止めて節約しましょう」と定めた法令です。もちろん改革には利益を増やすのはもちろん大切ですが、同時に無駄遣いをやめて支出を減らすことも大切ですね。

そもそも幕府では大奥というお金がやけにかかる機関が存在していて、そこの支出が幕府の財政を圧迫していました。

そのため吉宗は支出を減らすことを考え倹約令を発令していくようになり、質素倹約をスローガンとして身分相応でありながらも無駄を省くように奨励していくようになりました。

ちなみに、享保の改革以降は寛政の改革と天保の改革が行われますが、いずれの改革においても倹約令は採用されていき、改革が行われるときには必ずと言っていいほど出されることになります。

改鋳

吉宗は新井白石が改鋳した正徳小判によっていわゆるデフレ状態となったと考えており、吉宗は金の含有量を50%近く低下させた元文小判を改鋳しました。

50%を減らしたことによって自動的に1.5倍近い小判が出回ることになり、江戸の町はいわゆるインフレ状態となっていきましたが、これによって経済活動がさらに活発化していき、次第に市場は安定したそうでした。

また、改鋳した差益で幕府も潤うことになり、享保の改革の改鋳は成功した例としてあげられることが多いです。

人材登用

必要な改革には有能な政治家が必要不可欠です。吉宗は改革を行うにあたって非常に有能な役人や政治家を身分問わず登用していくことになります。

吉宗は下級役人や民間からも積極的に人材を登用し田中丘隅、大岡忠相、神尾春央らは著名な例です。

田中丘隅は民政で実績を上げ、大岡忠相は町奉行に就任し公事方御定書の編纂、町火消などの整備、神尾春央は勘定奉行に就任し財政収入の増加に活躍しました。

しかし、江戸時代には就く役職というものは基本的にそれ相応の身分がなければ慣れない制度で役人になれる人に限りがありました。

これではダメだと判断した吉宗は有能な人であれば誰でも役人になれるようにするために1723年に足高の制を整え、役人になっているときにはその役人分の給料を支払うシステムを整えました。

この足高の制によって下級役人でも高級職につけるようになり、有能な人が次々と登用されていくことになります。

また、市民の意見も積極的に取り入れる姿勢をとって1721年に目安箱を設置。目安箱の意見によって小石川養生所や町火消の整備が行われていき、民間の意見も幕府に伝わることになりました。

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