幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「土佐藩」の歴史ー身分制度・出身者をわかりやすく解説

5-1.江戸時代を通じて藩主の転封がなかったから

まず、この三藩の共通点としては、徳川幕府が成立して以降、国替え(転封)がありません。譜代大名などとは違い、徳川幕府の成立以来250年も藩主が動いていないので、藩の支配体制は確固たるものだったといえるでしょう。薩摩藩など鎌倉時代以来700年も薩摩から動いていないわけですから、まさに驚くべきことことです。

江戸や京から離れた遠隔地でもあったのですが、大藩であったために比較的家臣の数も多く、適正な教育制度さえ整えば、有能な人材は育ちやすかった環境だったと言えるかも知れませんね。

そして、いずれも大海に面している藩なので、もともと海防意識が強く、必然的に富国強兵に努めていたことが挙げられるでしょう。常日頃から戦いを意識していたため、いざ戦闘になると強かったのです。

5-2.地域密着型の家臣団

また下級武士の中で郷士という存在が大きかったといえるでしょう。郷士は、武士身分でありながら藩から禄をほとんどもらわずに、普段は田畑の耕作にいそしみ、非常時には藩の大きな戦力となる存在でした。

土佐藩の場合は、先ほどご紹介した長宗我部旧臣を主体とした下士。

長州藩の場合は、関ヶ原合戦で毛利氏が敗れた後、領地を大幅に減らされたために雇えなくなった家臣たちを召し放ち、致し方なくそのまま郷士となったパターン。

薩摩藩の場合は、大量の地侍や在郷武士たちをそのまま家臣化し、組織の中に組み込みました。城下士や郷士などと呼ばれます。薩摩藩人口の約1/4が郷士を含む武士だったといいますから、ものすごい武士の数ですね。

こうした郷士は、幕末の日本において様々な場面において活躍しました。長州征伐で活躍した奇兵隊も郷士などの下級武士がメインで編成されてましたし、戊辰戦争での薩長を主体とする新政府軍も、郷士を中心に成り立っていました。こういった下級武士が活躍できる素地があったからこそ、彼らは強かったのですね。

5-3.英邁な藩主やトップに恵まれたこと

そして最も大きな理由としては、幕末の激動期にあって、先見の明があった優れた藩主やトップに恵まれていたことが挙げられるでしょう。

薩摩藩主だった島津斉彬は、藩政改革と同時に、若くて有能な人材をどしどし登用しました。それが下級武士であろうと郷士であろうと重要なポストに置いていったのです。西郷隆盛や大久保利通が見いだされたのも、斉彬の先見の明があってのことでしょう。

長州藩はさらに先進的で、有能な人材であれば、それが武士出身でなくとも重要な役目を任せることに躊躇がありませんでした。禁門の変で部隊を率いた久坂玄瑞や、維新の立役者である桂小五郎や大村益次郎などは、実は医者の出でした。

土佐藩の場合は、後藤象二郎が参政に就き、山内容堂の支援を得て事実上のトップとなりました。下士以下の身分だった岩崎弥太郎を抜擢。土佐商会主任に登用し、殖産興業を興隆させ、下士出身だった坂本龍馬や中岡慎太郎とも交流を深めました。坂本龍馬からの献策で大政奉還が成しえたともいわれていますね。

このように、藩のトップが英邁だったからこそ、下級武士たちが思い切り活躍できたということなのですね。

「有能であれば出身や身分は関係ない!」という考え方

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出身や身分に関わらず有能な人材を活用することというのは、これはもう現代社会においても、わかり切ったことかも知れません。しかし果たしてそうでしょうか?知らず知らずのうちに、出身や国籍、環境などによって簡単に人を差別していませんか?人の能力というものは、決して生まれや履歴書などで推し量れないものなのでしょう。人間の本質を正しく見極めること。それが大事なんだと思います。江戸時代の殿様ですら出来たことですから、現代の私たちが出来ないわけはないのです。

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明石則実