3-5.土佐勤皇党の壊滅
しかし、土佐勤皇党の絶頂期もここまででした。隠居していた容堂が謹慎を解かれて復帰し、権力を取り戻したからです。
股肱の臣、吉田東洋を殺された恨みは凄まじく、容堂は土佐勤皇党を弾圧し、武市を切腹させ、主要メンバーを片っ端から死罪にし、壊滅へと追い込んだのでした。
しかし、土佐の下士たちの活躍は、これで終わったわけではありませんでした。下士出身の坂本龍馬や中岡慎太郎などが、薩長同盟や薩土盟約の成立に尽力し、国外から土佐藩を支えたのです。そうした活躍は、ゆくゆくは大政奉還や明治維新へとつながっていくのでした。
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4.土佐藩が輩出した偉人達
それではここで、土佐藩出身の幕末~明治にかけての偉人たちを紹介していきましょう。日本の行く末を案じ、未来を夢見た彼らへ思いを馳せたいものですね。
4-1.高知を代表する大偉人【坂本龍馬】
高知県の歴史上の人物と言えば、やはりこの人でしょう。坂本龍馬は1836年生まれ。尊王攘夷を夢見て土佐藩を脱藩しますが、さまざまな人々との出会いの中で新しい日本の未来像を夢見ました。
武力で日本を強くするのではなく、貿易や産業による強い経済力で日本を発展させようと考えたのは、龍馬ならではの考えだったのではないでしょうか。
また大政奉還に繋がる「船中八策」を作り出し、明治という新しい世の中の形を作り上げたのも龍馬の功績です。惜しくも志半ばにして凶刃に倒れますが、現在でも龍馬を慕う人々はたくさんいますね。
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4-2.土佐藩政を支え、明治政府でも活躍した人物【後藤象二郎】
不明 – http://www.e-navilife.com/chuo/story/10/07/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
土佐藩の参政として活躍した吉田東洋を義理の叔父に持ち、やがて山内容堂の信頼を得て自らも参政となりました。また坂本龍馬とも親交があって、ともに幕末の難局の中で土佐藩を支えました。
明治維新を迎えると、それまでの功績によって政府要職に就きますが、征韓論に反対したため下野。その後は政治活動に身を投じることとなります。板垣退助と自由党を結成し、欧州を歴訪するなど国際情勢にも通じていたそうです。
また歴代内閣にも入閣を果たし、逓信大臣や農省務大臣などを歴任しました。
4-3.自由民権運動の指導者【板垣退助】
板垣退助は上士の出身で、後藤象二郎とも幼いころからの親友だったそうです。当時としては珍しく下士身分の者に対しても親しく接していたとも。
いっぽうで徳川慶喜の大政奉還に断固反対し、武力倒幕を主張していたタカ派としても有名でした。自ら率先して戊辰戦争に参加しましたが、賊軍となった会津藩に対して寛容な態度で接し、多くの会津人から感謝されていたそうです。
明治維新になると、庶民派の政治家として自由民権運動を指導し、民衆の意見が反映される政治を目指しました。暴漢に襲われた際、「板垣死すとも自由は死せず」と放った言葉はあまりにも有名ですね。
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4-4.龍馬とともに新しい時代を切り開こうとした【中岡慎太郎】
中岡慎太郎は1838年生まれですから、龍馬より2歳年下となります。土佐藩郷士の倅として生まれますが、間崎哲馬に史学を、武市半平太に剣術を学ぶなどして日本の国防や政治について関心を持つようになりました。
やがて尊王攘夷の志士として活躍。長州藩に肩入れして雄藩連合による武力倒幕へと考えを改めていきます。1866年、坂本龍馬らとともに薩長同盟の密約を成就させ、その後の明治維新への道筋を付けました。
また長州の奇兵隊を参考にして陸援隊を結成。龍馬が作った海援隊とは異なり、あくまで武力で幕府を倒すための軍事組織だったといわれています。
1867年、京都の近江屋で龍馬と一緒にいたところを何者かに襲われ、明治維新を見ることなく死去しました。
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5.土佐藩・薩摩藩・長州藩。下級武士が活躍できた共通点
幕末の尊王攘夷運動や倒幕運動の中で、土佐藩、薩摩藩、長州藩の果たした役割は大きかったわけですが、いずれの藩においても、多くの下級武士たちが活躍しています。ではなぜ下級武士たちが活躍できたのか?その理由を一つずつ探っていきましょう。