2-4.困窮を極めていく下士たち
しかし、江戸時代中期になると田舎の農村部にまで貨幣経済が浸透し、下士たちの暮らしはどんどん苦しくなっていきます。中にはあまりの貧乏のために武士身分を金銭で売ってしまう者もおり、地下浪人(じげろうにん)と呼ばれて蔑まれる存在となったのです。
後に三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎の家も地下浪人で、わずかな土地を耕しつつ生きていくのがやっとだったといいますね。
いっぽう富裕な商人たちは下士から武士身分を金銭で買う者もいました。坂本龍馬の実家がそれに当たりますね。こうして、ますます上士と下士の身分格差が広がるようになります。
江戸時代後期の江戸でも、旗本身分を富裕商人たちに売るという者もいたほどですから、いかに当時の中・下級武士が生活に困窮していたかがわかりますね。
上士は、下駄の使用が許されていました。しかし下士は雨の日でも草履以外は認められませんでした。
下士は、絹織物の着物を着ることは許されていませんでした。(綿の着物のみ)
上士と下士が道ですれ違う時、下士は必ず上士に道を譲らねばならず、必ず頭を下げねばなりませんでした。
下士が上士に無礼を働いた場合、切り捨てても良いことになっていました。
上士の家と、下士の家同士での結婚は許されていませんでした。
3.下級武士の台頭【藩政改革と有能な人材の登用】
歴史に埋もれ、武士といえど差別される側の存在だった下級武士や下士たち。しかし幕末へ近くなるにつれ、幕藩体制の変化とともに、その存在がクローズアップされてきます。それは有能な下級武士が多く登用されたためでした。
3-1.幕藩体制の動揺
江戸時代中期以降、貨幣経済が急速に広まり、コメを中心とした流通経済を基本としていた幕藩体制は大打撃を受けました。
それもそのはず、いざ飢饉となれば年貢となるコメが入ってこないため藩の収入は減ります。財政が厳しいためになけなしのコメを売るわけですが、せっかくの備蓄米まで放出してしまう結果に。
しかし再び飢饉が襲ってくると、農民たちを救うための食糧すらなくなってしまうのでした。すると餓死者が続出し、農民たちは耕作地を投げ出して逃亡してしまいます。生産性を失った結果、ますます財政が厳しくなるというループに陥ったわけですね。
幕府も倹約奨励や金利政策などによって経済改革を図りますが、もはや各藩の財政は火の車。大商人からの多額の借入に加え、相次ぐ天災や飢饉などによって収入源まで不安定な有様では、藩政を立て直すどころではありませんでした。
3-2.藩政改革と藩校の存在
そこで各藩は独自に藩政改革を行い、経済に明るい有能な人材を登用していくのです。代々その地位にふんぞり返っていた上級武士ではなく、実務にあたっていたのは多くの下級武士でした。
薩摩藩の調所広郷や、長州藩の村田清風などがよく知られています。特に、500万両の借金を抱えていた薩摩藩を、わずか2年で200万両の蓄えができるほどの財政改革に成功した調所広郷の功績は素晴らしく、後に明治維新の雄となった薩摩藩の経済的原動力となったほどでした。
また、有能な人材の発掘や育成のために、各藩では藩校という学校をこぞって開設し、多くの下級武士の子弟が学んでいました。やがては幕末~明治の日本の礎を築くバックボーンとなるのですね。藩校を母体とする教育は現在でも息づいており、全国各地には旧藩校だった小中学校や高等学校などが多く存在しています。
3-3.土佐藩における下士の台頭【土佐勤皇党】
各藩で下級武士が活躍を見せ始めた頃、土佐藩ではどうだったのでしょうか?
幕末の頃、藩主である山内豊信(容堂)が吉田東洋(長宗我部家旧臣の出。上士)を参政として、藩政改革に乗り出していました。
しかし、尊王攘夷(天皇を奉り、異国の侵略を許さないこと)の大きな波は土佐藩にも押し寄せており、特に下士の間で「外国を打ち払うべき」という考え方は浸透していたのです。
ここで一人の下士が登場します。武市半平太(瑞山)は下士ながら上士格を持ち、「藩の意見を尊王攘夷にまとめ、京都へ進出して勤皇の下に幕府に攘夷を迫る」ことを目標に土佐勤皇党を結成しました。しかし、吉田東洋にいくら懇願しても却下され、武市の焦りは募るばかり。そこでついに強硬手段に出たのです。
こちらの記事もおすすめ
幕末に広まった「尊王攘夷」はどんな思想?わかりやすく解説! – Rinto~凛と~
3-4.藩政の中心となった土佐勤皇党
折しも山内豊信(容堂)は、次期将軍継承問題で敗れ、隠居謹慎していました。その隙を突いて武市は、目の上の瘤である吉田東洋を密かに暗殺するという暴挙に出たのです。
こうなると藩も土佐勤皇党の勢力を無視できず、藩内の保守派と結びついて、武市はついに藩政を握ることになったのでした。
土佐勤皇党の主要メンバーは、ほとんどが下士身分でしたから、これまで虐げられてきた下士がついに藩政を牛耳ることになったのです。そして藩主と共に入京し、朝廷工作にも成功し、幕府に攘夷を迫るための勅使が江戸へ向かった際にも、多くの土佐勤皇党員が随行しています。