その他の国の歴史中東

欧亜にまたがる大帝国となった「オスマン帝国」をわかりやすく解説

帝国発展の要因

オスマン帝国が発展した要因は3つあります。

一つ目はイェニチェリやシパーヒーとよばれる騎兵に代表される強大な軍事力。特にイェニチェリは鉄砲で武装し火力で敵を圧倒しました。

二つ目は強力な中央集権体制。トップであるスルタンとそれを補佐する大宰相のもとに巨大な官僚機構が整備されていました。これにより巨大帝国の統一を維持していたのです。

三つめは比較的寛大な占領地政策。オスマン帝国は支配下地域の住民に改宗を強要しませんでした。それぞれの宗教的集団をミッレトとよばれる集団に編成し自治を許しました。これは、ジズヤを払えば信仰を維持することを認めたシステムです。

中央集権国家でありながら、幅広い自治を認めることで帝国に対する反発を和らげていました。しかし、帝国が衰退期に入ると独立を目指す諸民族との戦いがおき、オスマン帝国は苦しむことになります。

瀕死の病人となったオスマン帝国

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16世紀後半のレパント海戦に敗れたのち、オスマン帝国の領土拡大は停止します。17世紀以降は大帝国の維持にも苦労するようになりました。18世紀以降、オーストリアとの戦いやロシアの圧迫、周辺諸民族の独立により領土は急速に失われていきます。20世紀初頭には「瀕死の病人」とさえいわれるようになりました。

レパントの海戦の敗北とウィーン包囲の失敗

16世紀後半、セリム2世はヴェネツィア共和国の拠点となっていたキプロス島を攻略し地中海支配を確たるものにしようとしました。

ヴェネツィアは当時最盛期にあったスペインのフェリペ2世・ローマ教皇と連合艦隊を結成。レパントの地で決戦を挑みます。結果は西欧連合軍の勝利。これにより、オスマン帝国の地中海での拡大に歯止めがかかります。

17世紀に入るとオスマン帝国ではスルタンと側近の対立、イェニチェリの反乱、宮廷のハレムの政治干渉などで混迷が深まりました。

そんな中に行われた第二次ウィーン包囲は失敗。逆にオーストリア軍に追撃されハンガリーを奪われてしまいました。1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はハンガリーを放棄。バルカン半島での形勢が逆転し、オスマン帝国の縮小が始まりました。

ロシアの圧迫

18世紀に入るとピョートル1世のロシア帝国が国力を急成長させ、南下政策を展開。黒海方面に進出しました。18世紀後半のエカチェリーナ2世は南下政策をさらに強めます。ロシアは2度にわたってオスマン帝国を攻撃。戦いに敗れたオスマン帝国は黒海北岸の領土を失います。

19世紀に入るとロシアは同じスラブ系民族を支援するパン=スラヴ主義を掲げてオスマン帝国への干渉を強化。一時はクリミア戦争の敗北により南下政策が弱まりますが、19世紀後半の露土戦争で再びオスマン帝国に大勝。帝国首都のイスタンブルに迫りました。

戦後に結ばれたサン=ステファノ条約ベルリン条約によりバルカン半島でのオスマン帝国の領土は大幅に縮小。欧米の支援によりかろうじて踏みとどまったオスマン帝国でしたが、もはやかつての繁栄は失われていました。

挫折した国内改革とムハンマド=アリーの登場

相次ぐ敗北をうけ、オスマン帝国ではセリム3世が改革に着手します。同じころ、フランスのナポレオンがエジプト遠征を決行。混乱したエジプトをムハンマド=アリーが掌握しました。

ムハンマド=アリーは領土拡大を目指して衰退するオスマン帝国と2度にわたって交戦。ムハンマド=アリーは領土拡大には失敗しましたが、エジプトの事実上の独立を達成します。また、1821年におきたギリシア独立戦争ではロシアの介入もあってオスマン帝国は敗北し領土が縮小。

こうした状況を打開するため、1826年にマフムト2世が改革に反対するイェニチェリを全廃するなど思い切った手を打ちます。さらに1839年にはアブデュル=メジド1世がギュルハネ勅令を公布し近代化を目指しました。1876年にはミドハト憲法を制定し改革を進めようとしましたが、露土戦争をきっかけとして憲法は停止。オスマン帝国は改革を成し遂げられないまま20世紀を迎えることになるのです。

帝国の滅亡

改革が挫折し、スルタンの専制政治が続くオスマン帝国では青年将校らを中心としたクーデタが決行されました。これを青年トルコ革命といいます。青年トルコの政権は反ロシアの立場からドイツ・オーストリアなどの同盟国側に加担。1914年には第一次世界大戦に参戦しました。

しかし、衰えきった瀕死の病人にイギリスやフランスとまともに戦う力はありません。一部の戦線ではケマル=パシャらの健闘で勝利しましたが、全体的に戦いは劣勢。イスタンブルのオスマン帝国政府は連合軍との間でセーヴル条約を締結してしまいました。

この条約では帝国領土はイギリス・フランスなどによって分割占領されてしまいます。条約の内容に怒った国民は戦いの英雄であるケマルに期待を寄せました。

ケマル率いるトルコ国民軍は混乱に乗じて侵攻してきたギリシア軍を撃退。アンカラに拠点を置いたケマルらは1922年にスルタン制の廃止を決議します。オスマン帝国最後のスルタンであるメフメト6世はマルタに亡命し、オスマン帝国は滅亡しました。

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