ドイツナチスドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

5分でわかる!分断と統一の「ドイツ」の歴史をわかりやすく解説

プロイセンとオーストリア

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神聖ローマ帝国を二分した三十年戦争。この戦争の講和条約であるウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国は完全に衰退してしまい、今のドイツの地域では領主が各地に点在している状態となりました。その領主の中でも特に強大だったのがプロイセンとオーストリアでした。

プロイセンは元々ドイツ騎士団の国であり、1701年に王国に昇格したまさしく新興国でした。

一方のオーストリアはハプスブルク家という当時のヨーロッパでは一二を争うほど有名な貴族で、ヨーロッパの各地を支配していました。この後のドイツの歴史はこの2国を中心に動いていくことになるのです。

ナポレオンとドイツ連邦

18世紀に入るとドイツのお隣であるフランスではフランス革命が勃発。プロイセンはオーストリアと共同してフランス革命を潰そうとしますが失敗。逆に革命後のフランスを支配したナポレオンに一時期支配下に置かれ、この時ようやく神聖ローマ帝国が滅亡しました。ナポレオンはフランス革命の意義とナポレオンの権力を見せつけるために旧神聖ローマ帝国領内の領主に対してライン同盟と呼ばれる連合を成立させます。ナポレオンは残念なことに強大な力を持持ち巻き返したプロイセンによって失脚に追い込まれますが、このライン同盟の成立の時に芽生えた民族自決の動きはドイツのこれからを大きく左右する一つの要因となりました。

そしてそのライン同盟を成立させたナポレオンが失脚した後、ドイツではライン同盟に変わる新たな連合であるドイツ連邦が成立。オーストリアが議長となる形で連邦国家を形成していきました。

ビスマルクによるドイツ統一

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ナポレオン失脚の直後に作られたウィーン体制はドイツの統一を大きく妨げる要因となりましたが、ナポレオンが植え付けた民族主義の動きは止まらず1848年に三月革命が勃発。フランクフルト国民議会が開設されてドイツ統一の動きが出てきます。しかし、この時問題だったのがドイツを誰が主導で統一させるのかでした。当時ドイツを支配していたプロイセンとオーストリアは互いに強国。どちらがドイツを統一させてもおかしくありません。

しかし、プロイセンにはヨーロッパ一の傑物と称されるビスマルクがいたのでした。ビスマルクは歴史の教科書でも有名な『鉄血演説』の下に軍拡を行なっていき、1866年に普墺戦争を起こすとこれに勝利。ドイツ統一の主導国はプロイセンに決定し、1867年にプロテスタントの国が多かった北ドイツを統一してプロイセン主導の北ドイツ連邦を成立させます。さらにビスマルクはフランスにも喧嘩を売って普仏戦争と呼ばれる戦争に勝利。アルザス・ロレーヌ地方を獲得し、パリのヴェルサイユ宮殿において南ドイツの併合を宣言。こうしてドイツはプロイセンの元で統一され1871年についにドイツ帝国が成立したのでした

ビスマルクの政策とヴィルヘルム2世

こうして晴れてドイツを統一したビスマルクでしたが、彼にはとある一つの悩みのタネを持っていました。そう、普仏戦争でボコボコにしたフランスだったのです。フランスは普仏戦争の敗北によってアルザス・ロレーヌ地方を取られ、さらに多額の賠償金を支払わなければいけない羽目になったのでドイツのことが大嫌い。なんとかしてリベンジマッチをしたかったのです。当然ビスマルクからしてみたらそんなことあってはなりません。どうにかしてフランスを抑え込もうとフランスを孤立させるように外交を立ち回っていがなければなりませんでした。しかし、元々外交官だったビスマルクはその難題を次々と解決。ロシアとは再保障条約という軍事条約を結び、さらにイタリア・オーストリアと三国同盟を樹立。フランスを孤立させることに成功させます。また、社会主義者は激しく弾圧するものの、社会保障を推進するなどアメとムチを使って統制を行なっていき、ドイツを発展させていきました。

しかし、ビスマルクは不運なことにこの頃ビスマルクを信頼していたヴィルヘルム1世が亡くなり、その孫であったヴィルヘルム2世が即位すると、彼の活躍を妬んだヴィルヘルム2世は彼を無理矢理失脚に追い込んでしまい、30年続いたビスマルクの政治は終わりを告げました。そしてこれはドイツ帝国を破滅に追い込む一歩にもなったのです…

ヴィルヘルム2世の政策と第一次世界大戦の始まり

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こうしてビスマルクを失脚させたヴィルヘルム2世でしたが、ビスマルクがいなくなった後のヨーロッパでは一気に対立のムードが激しくなっていきます。特にシベリア鉄道の開通費用をフランスが出したことによって結ばれた露仏同盟はドイツに衝撃が走り、さらにイギリスもその同盟に参加するとドイツは一気に苦境に立たされるようになりました

ヴィルヘルム2世はこの状況をなんとかするために世界政策を実施してイギリスやフランスみたいに海外に植民地をどんどん獲得していきます。特にその中の一つである3B政策(ベルリン・イスタンブール・バグダード)は特に有名です。また、この頃対立が激しく火薬庫とも呼ばれたバルカン問題にも首を突っ込み始め、ロシアとの対立をどんどん深めていきました。

そしてついに1914年6月セルビアにてサラエボ事件が発生。オーストリア帝国がセルビアに宣戦布告したことによってロシアもそれに合わせて宣戦布告。ドイツ帝国は三国同盟を結んでいたことによって巻き込まれる形でロシアに宣戦布告。第一次世界大戦が勃発してしまいました。

第一次世界大戦の時のドイツ

こうして第一次世界大戦が始まってしまいましたが、この時の状況はフランスとロシアに挟み撃ちされているような状況でした。

世の中の戦いの中で挟み撃ちというのはどんな戦いでも避けなければならないものですからドイツからしたらこの状況をなんとかしなければなりません。そこで当時のドイツの陸軍参謀総長出会った小モルトケ(このモルトケは普仏戦争の時のモルトケの息子。だから小がつくよ)はシュリーフェン計画という攻撃目標を立案。ロシアのインフラがクソ悪いことを利用してロシアが準備を整える間にフランスを普仏戦争のように全力でぶっ潰し、その後一気にロシアを叩くというまぁ、理にかなっているような作戦でした。

しかし、この作戦は中立国のベルギーを攻めなければいけないということもあり、とんでもないことにイギリスの参戦を招いてしまい、さらにロシアの意外な準備の速さもあり見事に失敗。ドイツは2方面戦闘を強いられることになってしまい、ジリ貧のうちに国力がどんどん衰退。1918年には戦争反対の大革命が起きてしまってヴィルヘルム2世はオランダに亡命してしまい、ドイツ帝国は滅亡してしまいました。こうして第一次世界大戦はドイツ革命という大運動によってドイツの敗北という形で終わったのです。

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