勝海舟の大きさは明治維新後も活かされる
勝海舟は、明治時代に入り、1873年に海軍卿に任じられます。それ以前の明治政府の軍隊は、維新を主導した藩を中心に構成され、特に薩摩藩から西郷隆盛が連れてきた士族(侍)が中心になっていました。しかし、明治政府内で、海外歴訪から帰った大久保利通や木戸孝充らと、留守を預かって征韓論を主張する西郷、江藤新平、板垣退助らが対立し、論争に敗れた西郷らは、政府から下野します。これは、明治6年に起こったため、明六の変と言われているのです。
その際に、西郷についてきた士族たちが殆ど郷里に帰ってしまったため、政府軍は実質的に存在しなくなり、新たな軍事組織を作る必要ができました。それを解決するために長州出身の山県有朋は、初めて日本に徴兵制度を導入したのです。陸軍は山県有朋が担当し、その時に海軍卿に任じられたのが勝海舟でした。旧幕府においても軍艦奉行を担当しており、適任だったのです。
山県有朋に率いられた陸軍は、長州色が強く、保守的な集団でした。しかし、勝のもとでスタートした海軍は彼の性格もあり、自由闊達な集団になっていきます。陸軍は長州閥を形成して、政治介入を繰り返し、ついには戦争に日本を引き込んでいったのです。
明治維新の仕上げを担当した勝海舟と西郷隆盛
最後の将軍であった徳川慶喜が、大政奉還し、鳥羽伏見の戦いに敗れて大阪から逃げ出しますと、薩摩と長州は、旧幕府軍と最後の戦い、戊辰戦争に突入します。明治政府軍の目的は江戸の徳川氏を滅ぼすことでした。そのため、江戸城攻撃は、最初から最終目標となっていたのです。そのために、薩摩、長州を中心とした政府東征軍は、すべて江戸を目指して各地を制圧していきました。幕府軍が制圧され、江戸では旗本を中心に江戸城に立て籠る動きになります。政府軍は、江戸の町を焼き払って、江戸城を最終目標として攻撃を加える方針が固まっていたのです。
この江戸攻撃が実施されれば、多くの江戸の町人が巻き込まれて多くの死者が出ることは明らかでした。そのため、江戸城攻めを避けようという動きが出てきます。勝海舟はその先頭にいましたが、薩摩出身で江戸城の大奥を取り締まっていた篤姫こと天璋院も、同郷の西郷隆盛に使者を送って説得をしていました。それでも、江戸攻撃は止めることができず、勝は山岡鉄舟を派遣して西郷と最後の交渉に命を懸けたのです。そして、ついにその覚悟は西郷を動かし、江戸攻撃は回避され、無血開城されました。
最後の交渉で徳川慶喜の蟄居と領地変換が決まる
その代わり、徳川慶喜は、水戸に蟄居し、すべての徳川家の領土、財産を朝廷に返還したのです。これで、薩摩長州の徳川幕府の討伐目的は達せられ、正式に明治時代が幕開きました。すなわち、勝と西郷が明治維新の総仕上げをしたと言ってよいのです。(実際には、その後も旗本が上野山に立てこもったり、東北地方の戦禍、五稜郭の戦いなどが続きますが、大勢はこの江戸開城で決まりました。)
今必要な勝海舟の柔軟さと先見性
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勝海舟は、徳川幕府の重臣でしたが、その考え方は非常に柔軟性に富んでおり、明治維新への移行に重要な役割を果たしました。時代の変化を早くから捉えて、倒驀派とも付き合うなど準備をして、最後に徳川慶喜に引導を渡したのです。このように、先見の明を持って常に時代の先を見ていくことは私たちにも必要なことと言えます。目先に囚われず、広く将来を見られるようになりましょう。
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