攘夷派の坂本龍馬を改心させた正論
坂本龍馬は、江戸に出て剣術で免許皆伝の腕前になっていました。同郷の土佐の武市瑞山(半平太)などに代表される攘夷派の土佐勤王党に所属して、勤皇攘夷(外国船打ち払い)を唱えてはいましたが、なぜ攘夷なのかについては、よくわかっていなかったのです。勝海舟が、開国論を主張していることを聞き、剣術の腕を活かすためにも勝海舟を討つことを考え、海舟の自宅に乗り込みました。勝と話をして攘夷論に変えさせ、説を変えなければ勝を討とうと考えたのです。
しかし、勝海舟の邸宅に乗り込みますが、勝は龍馬を屋敷に招き入れ、二人は長々と世の更けるまで話をします。アヘン戦争後のアジアの情勢、アメリカ、イギリスなどの欧米列強との文化、科学技術面のレベルの高さなどを勝は懇切丁寧に龍馬に言い聞かせたのです。それまで攘夷論を振りかざしていたものの、なぜ攘夷なのかがよくわかっていなかった龍馬は、勝の話に触れて、その疑問を氷解させ、開国論に転向します。しかも、勝の存在価値に気づいた龍馬は、用心棒として勝の屋敷を守るようになったのです。
江戸末期における勝海舟の存在
勝海舟は、幕府の軍艦奉行として幕府の海軍を率いるようになります。しかし、幕府の統治能力が無くなり、先が長くないことを知っていた勝は、他の幕府重臣が幕府の延命策に走っていたのに対して、彼らとは一線を画していました。幕府内が外国政策よりも一橋派(水戸藩)と紀州(南紀)派(井伊直弼の譜系)の権力争いになっていることに対して批判をしています。
もともと勝は、薩摩藩の島津斉彬と藩主になる前から親交があり、可愛がられていました。斉彬の海外文化、技術などについての知識に大きな影響を受けたと言われています。その縁があるために同じ島津斉彬に可愛がられた西郷隆盛とも親交を持ち、戊辰戦争においても勝と西郷の会談によって江戸の町は焼けずに済んだのです。
こちらの記事もおすすめ
一からわかる戊辰戦争と箱館戦争 – Rinto~凛と~
歯に衣着せぬ勝海舟の姿勢_今のビックマウス
勝海舟は、今でいう「ビッグマウス」であり、歯に衣を着せぬ言い方が有名でした。最後の徳川将軍になった徳川慶喜にも、直接諫言をしていたと言われています。その説得の結果、慶喜は、水戸に蟄居し、徳川家の領地を返上することを受け入れ、江戸の町は守られたのです。しかし、徳川慶喜は、江戸時代に入って、勝が明治政府の参議になったことから、勝がいくら慶喜のために誠実に仕えようとしても、彼を許さず、生涯恨んでいたと言われています。
江戸幕府海軍を率いる軍艦奉行としての勝海舟
勝海舟は、江戸幕府の軍艦奉行になり、海軍を率いますが、実質には海軍の軍艦で戦争をしたことはありませんでした。人や荷物の運搬を主に行い、長州征伐などには参加していません。龍馬などは、海援隊でいろは丸を使って交易を行って操船術を活かしていましたが、勝自身はそのようなこともしませんでした。将軍を江戸から大阪に運んだりしただけだったのです。すでに幕府は死に体になっている中で、敵を作るよりも倒幕後を見据えて行動していたと言えるでしょう。
結局、幕末には、幕府海軍は榎本武揚が率いて軍艦とともに函館に移動し、五稜郭で最後まで明治政府に抵抗しています。その榎本武揚も結局は明治政府に投降して、明治政府の海軍中将から海軍卿になり、晩年には逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣などを歴任しました。幕臣で明治政府の大臣になったのは、勝海舟と榎本武揚だけです。
勝海舟の倒幕派とのつながりが活きた江戸攻撃の回避
勝海舟の手柄であり、有名なのが、江戸城攻撃を前に行われた西郷隆盛の会談でした。この会談によってすでに決まっていた江戸城攻撃は中止になり、無血開城で江戸の町は焼けずに済み、多くの江戸町人が亡くならずに済んだのです。当時の西郷隆盛は、明治政府東征軍の参謀総長であり、勝は、機能を失った江戸幕府で唯一人、幕臣として交渉のできる立場でした。しかも、将軍徳川慶喜の全権委任を受けて交渉したのです。交渉の下準備は、当時の江戸で一番の剣豪と言われた山岡鉄舟が行い、現在の東京の田町にあった薩摩藩邸で勝と西郷の会談は行われました。
この会談が可能になったのは、山岡鉄舟の勇気と勝の倒驀派主要人物との付き合いだったと言えるでしょう。勝は、西郷隆盛を登用した島津斉彬に可愛がられており、その当時斉彬のお庭番(側用人)であった西郷とも面識があったと考えられます。その西郷とは薩長同盟以降に再開し、旧交を温めました。開国の大切さを説くとともに、すでに幕府の役割が終わっていることを伝えたのは、有名な話です。長州の桂小五郎とも付き合いが深く、明治維新に導いたこの二人と親しかったことが、勝の財産であり、江戸の町を救ったと言えます。