安土桃山時代日本の歴史

織田信長は何故本能寺の変で裏切られた?歴史好きが考察してみた

諸国放浪の末に細川藤孝とともに足利義昭の家来に

諸国放浪の末に朝倉義景の元に落ち着いた明智光秀は、そこに訪れた足利義昭に気にいられ、細川藤孝と共に家来になります。細川藤孝は、後の熊本城の城主となった藤川忠興の父幽斎です。1992年に日本新党の党首として総理大臣になった細川護煕氏はその子孫になります。また、明智光秀と細川藤孝の仲も、後に光秀の娘お玉(細川ガラシャ)を藤孝の息子の細川忠興に嫁がせており、互いの結び付きは固かったのです。いずれにしても、諸国放浪の中で行儀作法にも通じ、京の都のしきたりにも通じていたため、足利義昭も安心して仕えさせました。光秀は、義昭に仕えたことで、彼を将軍にして自分も出世できる夢を見ることになりました。

武家社会の秩序、作法に詳しかった光秀

明智光秀は、足利義昭に気にいられたように、武家社会の秩序や作法にも通じていました。前将軍の弟である足利義昭を将軍にと考えるように、秩序を重んじる性格だったのです。しかし、織田信長に仕えるようになって、彼の人生は思いもよらない方向に進み始めます。彼は、信長が京都に上り、義昭を将軍職につけた時には、京都奉行として義昭の元で働いていました。しかし、義昭は信長に押さえつけられ、不満を抱いて他の大大名たちに京に上るように密書を連発します。それが発覚して、ついに義昭は将軍職を追われ、結局室町幕府は終焉を迎えてしまうのです。室町幕府の中で出世するという光秀の夢は終わってしまい、信長の天下布武のために、戦場に引き出されることになります。

それは光秀にとっては望ましいものではありませんでした。それでも必死に働き、戦果も挙げて織田家臣の中では最初に城持ちになったのです。しかし、秩序を重んじる光秀にとって、信長の天下布武の先にあるものが見えてくるに従い、不安を覚えるようになります。将軍を追放して秩序を壊してしまうと共に、比叡山延暦寺の焼き討ちで見られる、信長の神をも恐れぬ姿勢に不安を覚えたのです。日本の天皇制度さえも壊しかねないという不安が心の中に生まれていたのでしょう。

明智光秀は悩み苦しんだ

従って、明智光秀は長い期間、相当悩んでいたはずであり、それが本能寺の変を起こすきっかけになったことは間違いありません。その光秀に、旧秩序を重んじる勢力が誘いをかけた可能性は大いにあったと考えられます。その声をかけた共謀者が、誰だったのか、家康だったのか、朝廷の誰かであったのかはわかりません。歴史の謎です。

本能寺の変の本質とは何か_旧社会の揺り戻しが家康の支配体制へ

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本能寺の変は、織田信長の行き過ぎた改革思考に対する結果とも言えます。天下布武そのものに対する抵抗よりも、その先にある新しい社会に対する不安が大きかったのです。その不安を抱える保守主義的な人々の代表で会った明智光秀が信長の前に立ちふさがったと言えます。

天皇制まで破壊しかねない信長の秩序破壊姿勢は、天皇制の元で1千年以上生きてきた公家や京都の豪商、武家の棟梁たちにとっては許されるものではありませんでした。また、農業と結び付いた当時の日本の支配階級であった大名たちにとっても望ましいものではなかったのです。その代表が家康でした。

徳川家康は保守主義者で光秀とは通じる面があった

徳川家康は、天下をとると、キリスト教を禁じ、農業を基本とする武家本来の社会を維持しています。天下をとるまでは信長の改革姿勢を踏襲しますが、一旦天下を取れば、信長のようにすべてを否定することなく、保守的に振る舞っているのです。それは、同じ保守主義者である明智光秀と通じるところがありました。やはり、明智光秀と家康はどこかで繋がっていたのかも知れません。本能寺の変の時には堺の町にいた家康は、紀伊の山岳地帯から伊賀に出て、岡崎に帰国しています。しかし、その後の動きは面と向かって反光秀の動きは見せていないのです。

行き過ぎた改革は裏切られる

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本能寺の変で言えることは、やはり出る杭は打たれるということです。織田信長の改革姿勢はその途中で多くの反発を招いて、結局、光秀が保守派の代表として信長を討ったと言えます。何事も行き過ぎると抵抗が強くなり、どんなに強靭な精神力で押し通そうとしても周囲に裏切られて失敗するという教訓を教えてくれているのです。私たちも会社や家庭の中で、やり過ぎてしまいますと、仕事も家庭もうまくいかなくなることがあります。その時には、強引に推し進めようとするよりは、一度立ち止まり、引いて物事を見ることも必要でしょう。

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