安土桃山時代日本の歴史

織田信長は何故本能寺の変で裏切られた?歴史好きが考察してみた

織田信長は常識の破壊者だった

織田信長は、戦国末期に現れたデストロイヤー、すなわち、破壊者だったことはご存知ですね。戦国時代まで、常識となっていた日本の常識をすべて無視して、本当に良いものだけを残そうとしていました。彼は、天下布武を掲げていましたが、それはこれまでの常識を覆して新しい世の中にするということだったのです。戦国時代に終止符を打つためには、最後に織田信長のような人物が現れる必要があったと言えるでしょう。

織田信長は日本の支配構造そのものを変えようとした

織田信長が始めた既存勢力打倒のための天下布武の戦いは、大名同士の戦いだけではなく、宗教面においても徹底していました。本願寺派(一向宗)と徹底的に戦い、比叡山延暦寺を焼き討ちした行為は、当時の仏教のあり方に疑問を投げかけるものでした。キリスト教の布教を許可したことにもそれは現れています。早く言えば、当時の日本を支配していた常識というものを破壊しようとしたのです。それは、下克上が盛んに行われ、武家のいざ鎌倉という古いしきたりが否定された時代であったからこそ、可能であったとも言えます。

そのために、信長が行なったのは、当時の武士が農村に住み、戦いは農閑期しか行えない体制を打ち破ることでした。すなわち、家臣の武士たちを農村から切り離し、いつでも出陣できる体制に変えたのです。それによって、織田勢はいつでも周辺地域への進出が可能になり、家臣の武士をあらゆる方面に派遣することができるようになりました

これには、当時日本を支配していた守護大名たちは自分たちの地位が危うくさせ、反発も大きかったのです。

石山本願寺攻めと比叡山延暦寺の焼き討ち

織田信長は、大阪に陣取った石山本願寺派の他、伊勢長島、加賀などの各地の本願寺派と対立し、一向一揆と戦いました。生産の拠点である農村で、念仏によって救済されるという本願寺派の教えに対して、信長は疑問を持ったのです。

また、当時の延暦寺では、僧侶が金儲けをしたり、家庭を持って、僧侶は仏教の教えからはかけ離れた生活をするようになっていました。昔から僧兵などを養って政治にまで口を挟んでいたのです。そのような仏教の姿勢に対して、信長は激怒し、焼き討ちを命じました。本来、行儀作法などに詳しく、保守的な考え方の強かった明智光秀は、強い焦燥感を感じたはずですが、それでも彼は信長の意向に逆らわず、延暦寺の焼き討ちでは先頭に立って実行したのです。

足利義昭の追放によって明智光秀の心に疑心が生じた可能性

信長の当時の支配体制を壊す考え方は、徹底していました。信長に隠れて大名たちに何度も自分への支持を取り付けようとした将軍足利義昭は、信長の逆鱗に触れ、追放されてしまいます。それによって、戦国時代の象徴であった室町幕府は完全に消滅し、新たな支配体制の構築の時代に入ったのです。信長は天下布武を掲げて、上杉謙信、毛利輝元などの有力大名との戦いに突入します。仏法を厚く信仰していた上杉謙信が簡単に従う訳がありませんでした。毛利家もすでに中国地方を完全に支配下に置いており、簡単に信長に従うことはなかったのです。

最大の勢力であった甲斐・信州を支配する武田信玄とは刺激を避けていました。その信玄は、足利義昭の誘いに応じて出陣し、信長勢の先陣として武田と張り合っていた徳川家康を三方ヶ原の戦いで簡単に打ち破ります。しかし、その途上で信玄は労咳によって病死してしまうのです。

その結果、足利義昭は京都から追放されますが、それに一番心を痛めたのは、義昭を信長に紹介した明智光秀でした。恐らく、光秀は信長が天下を取った時を思い浮かべ、不安を感じ始めたと考えられます。

織田信長の天下布武の行き先

織田信長は、天下布武を掲げて天下を平定して、戦国の世を終わらせようとしていましたが、彼の革新的な政策は明確でした。楽市楽座やキリスト教の布教許可におけるように、自由な世の中を目指していたのです。それは、ヨーロッパにおけるルネッサンスに似ていました。ヨーロッパの中世を終わらせたのはルネッサンスだったからです。その自由な考え方によって、それまでキリスト教(現在のカトリック派)支配の強い、自由のない社会制度を崩壊させています。宗教革命もルネッサンスと一緒に起こったのです。

織田信長は、それらを一人で打ち立てようとしていました。そのために、戦国大名との戦いだけでなく、多くの抵抗が生まれていたのです。明智光秀も心の中にその抵抗感が生まれていたのでしょう。しかし、そのような自由な考え方を促進させたのが、ヨーロッパの中世を支配し、敗れたカトリック教会の宣教師たちだったのは皮肉ですね。

本能寺の変を起こした明智光秀はどういう男だったのか

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明智光秀は、もともと美濃の出身で地元の守護大名であった土岐氏の支流の明智氏のもとで生まれ、通称は十兵衛と呼ばれていました。ただ、正確な生年はわかっておらず、1516年、1528年などの諸説あります。本能寺の変は1582年ですから、すでにかなりの高齢になっていました。当時の平均寿命は50歳と言われていたのです。

また、青年期の記録はあまりなく、斎藤道三に使えた時に道三が息子の龍興に攻め滅ぼされた後、全国を放浪したと言われています。その後に越前の朝倉義景に使え、その時に足利義昭が身を寄せたことから、その家臣になりました。どうして謀反人となったのでしょう。

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