室町時代戦国時代日本の歴史

東北一の大大名「伊達政宗」最後の戦国大名をわかりやすく解説

慶長遣欧使節と大坂の陣

1613年、政宗はスペイン領メキシコとの通商を目指して支倉常長をスペインに派遣。支倉らの一行はメキシコを経てスペイン、ローマへと到着しました。これを慶長遣欧使節といいます。しかし、使節が帰国した時はキリスト教の禁止や鎖国が厳しくなってきたとき。支倉常長は失意のうちにこの世を去りました。

時代は戦国乱世から太平の世へと向かいつつありました。1614年、政宗は江戸幕府の要請に従い大坂冬の陣に出陣します。あくまでも幕府に従おうとしない大坂城の豊臣秀頼と淀殿を討伐するためでした。冬の陣の戦いは膠着状態となり、いったんは和議が結ばれます。しかし、翌年には戦いが再開。大坂夏の陣です。この戦いにも政宗は出陣し、道明寺の戦いで後藤又兵衛の軍と戦いました。大坂の陣の後、政宗の子の秀宗は恩賞として伊予に10万石を与えられました。宇和島藩の始まりです。

その後の政宗は、かつての野心家ぶりが嘘かと思われるほど江戸幕府に忠実な大名として生き残っていきます。関ヶ原で生き残った多くの大名が改易・減封されるなか、仙台藩は明治維新までその領土を間も抜きました。

最後の戦国大名、伊達政宗の死

image by PIXTA / 44218946

政宗は大坂の陣の後、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代まで生きました。家光が参勤交代制度を発布した時などは「将軍の命令に背くものは政宗が討伐する」と諸大名の前で言い切ります。幕藩体制の大名としていきる決意の表れだったのでしょう。

彼の辞世の句は「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」です。この句のように死の間際に一点の曇りもなかったかどうかは彼のみぞ知るところでしょう。

1 2 3
Share: