- 大乱の最中に生まれた「聡明丸」細川政元
- 父は応仁の乱の当事者・細川勝元
- 8歳で家督相続、拉致されたことも
- 次期将軍をめぐる政争に敗れ、政権中枢から遠ざかる
- 「明応の政変」で将軍を追放し、新将軍のもとで実権を握る
- クーデター「明応の政変」を実行!将軍やライバルを追放する
- 新将軍を傀儡とし「半将軍」と呼ばれる
- 比叡山を焼き討ち!勢力を拡大し、権勢並ぶものなし
- 将軍との関係や後継者問題に頭を悩ます
- 将軍・義澄とはぎくしゃく
- 将軍の要求に応じるも、敵を増やしてしまう
- 政元自身の跡継ぎ問題
- 「空を飛びたい!」途方もない夢を抱いた政元が暗殺されるまで
- 本気で天狗になろうと思っていた
- 出奔癖のある気分屋だったため、家臣たちの不満が蓄積
- 養子の補佐役に暗殺される
- 権力者としての自分と、夢追い人としての自分を両立できなかった政元
この記事の目次
大乱の最中に生まれた「聡明丸」細川政元
森田易信 – The Japanese book “Ōuchi Yoshitaka (大内義隆)”, Heibon-sha, 1979, パブリック・ドメイン, リンクによる
細川政元は、応仁の乱の当事者であり室町幕府の実力者・細川勝元(ほそかわかつもと)の嫡男として生まれました。「聡明丸」と名付けられ、父からも将来を期待された政元は、父の死後幼くして家督を継ぐことになります。その後成長し、幕府の重臣となりますが、10代将軍をめぐる争いに敗れ、いったんは政権の中枢から遠ざかることになりました。ただ、これは政元のステップアップの序章に過ぎなかったのです。
父は応仁の乱の当事者・細川勝元
細川政元が生まれたのは、文正元(1466)年のこと。父は、室町幕府のNo.2である管領(かんれい)をつとめる細川勝元でした。
ただ、彼が生まれた時期は非常に不安定な時代でした。誕生翌年には、京都を荒野に変えた大乱・応仁の乱が起こります。この時、父・勝元は東軍の総大将となり、戦いに身を投じました。
しかし、応仁の乱は10年続きながらも決着がつかず、この間に父は亡くなってしまいます。ただ、臨終の場で父は政元を指し、「この子がいれば将来は安泰だ」と言い残したそうです。「聡明丸」という幼名をつけられていた政元ですが、おそらく名前の通り、頭のいい子供だったのかもしれません。
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8歳で家督相続、拉致されたことも
父の死に伴い、わずか8歳で家督を継いだ政元ですが、聡明であるとはいえ、さすがにまだ政治の一線に立つことはありませんでした。彼が少年から青年へと成長していく間に、応仁の乱は終結しますが、彼自身は家臣同士の争いにまきこまれて拉致・幽閉されたこともあったそうです。もしかすると、彼はこの時「権力さえあれば、こんな目には遭わない」と実感したかもしれません。それがきっかけかどうかはわかりませんが、大人になると、彼は将軍を上回る権力を手にすることを望むようになったのです。
次期将軍をめぐる政争に敗れ、政権中枢から遠ざかる
延徳元(1489)年、9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)は、六角高頼(ろっかくたかより)の討伐中に陣没します。となれば、後継者をどうするかということになり、政元は、義尚の従兄弟で僧となっていた清晃(せいこう/後の足利義澄/あしかがよしずみ)を推薦しました。ところが、当時絶大な力を持っていた8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の妻・日野富子(ひのとみこ)と管領の畠山政長(はたけやままさなが)は、義政の弟・義視(よしみ)の子で、同じく義尚の従兄弟である足利義材(あしかがよしき)を強く推し、結局義材が10代将軍の座に就くこととなったのです。
これで富子と畠山政長の権勢は頂点に達し、政争に敗れた形となった政元は、数年間の我慢の日々を送らねばなりませんでした。
しかし、政元は何もせずにいたわけではありません。この数年間に、彼は着々とクーデターを起こす計画を立てていたのでした。
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「明応の政変」で将軍を追放し、新将軍のもとで実権を握る
政元は日野富子と連携し、将軍・足利義材と畠山政長を追放するクーデター「明応の政変」を起こしました。これにより、政元は自分が推薦した足利義澄を将軍に就け、彼を傀儡として実権を掌握します。その権勢は将軍と変わらぬもので、「半将軍」と彼は呼ばれるようになりました。彼の前に立ちはだかる者はいないように見えました。
クーデター「明応の政変」を実行!将軍やライバルを追放する
明応2(1493)年、将軍・足利義材と畠山政長が出兵中、ついに政元は動き、クーデターを決行しました。義材を将軍から廃し、政長も守護職から解任したのです。
この裏には、日野富子との連携がありました。一時は敵対した政元と富子でしたが、富子の方では、将軍・義材が彼女の言うことを聞かなくなってきたため、首のすげ替えを考えていたのです。2人の思惑が一致したというわけですね。また、義材は政元の反対を無視して大規模な出兵を行うことがあり、政元を討とうとしていたという噂までありました。
新将軍を傀儡とし「半将軍」と呼ばれる
こうして、義材と政長の追放に成功した政元は、かつて将軍に推していた清晃を11代将軍の座に就けたのです。足利義澄の誕生でした。そして、政元は管領に就任し、義澄を傀儡として実権を掌握したのです。日野富子が亡くなり、彼を脅かすものが完全にいなくなると、彼はその権力から「半将軍」と呼ばれるようになりました。
この一連のクーデターは「明応の政変」と呼ばれます。将軍の権威が地に落ち、幕府の衰退が本格的に始まるきっかけとなった出来事であるため、一説にはこの事件が戦国時代の幕開けともされていますよ。それほど、政元が行ったことは大きなものだったのです。