室町時代戦国時代日本の歴史

東北一の大大名「伊達政宗」最後の戦国大名をわかりやすく解説

摺上原(すりあげはら)の戦い~会津平定戦~

人取橋の戦い後も政宗と佐竹・蘆名の争いは続いていました。1588年には大崎合戦での伊達勢苦戦を聞いて攻め寄せた蘆名勢と郡山合戦を行っています。

ちょうどそのころ、蘆名氏は当主が幼いこともあり家中のまとまりを欠いていました。奥州南部の覇権を狙う政宗は、蘆名氏の重臣である猪苗代盛国を寝返らせることに成功。この機に兵を南へと差し向けます。途中、政宗は介入しかねない相馬氏の領土を攻撃して動きを封じると軍を蘆名氏の本拠、会津黒川城へ向かわせました。

両軍は猪苗代湖と磐梯山に挟まれた摺上原で激突します。戦いの当初、強い西風を背にした蘆名勢は数のふりをものともせず伊達勢へと突撃。しかし、蘆名勢の一部がなぜか戦いに参戦しようとしません。

蘆名勢が有利を活かせないまま、風向きが東風になると一転して伊達勢が蘆名勢を追い詰めます。情勢が不利になると、蘆名勢のうち参戦していない部隊が退却を始めました。これがきっかけとなり蘆名勢は総崩れ。戦いは伊達勢の勝利に終わり、黒川城も陥落。政宗は南東北の覇者となったのです。

小田原参陣~豊臣秀吉への臣従~

摺上原の戦いに先立つこと2年前の1587年、関白となった豊臣秀吉は関東や奥羽の大名に私的な戦争を禁じる総無事令をだしていました。摺上原の戦いは秀吉の命令を無視して行われたのです。

九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は命令に従わない関東の大大名、北条氏を征伐。いわゆる、小田原征伐です。政宗は北条氏と結んで秀吉に対抗するか、それとも秀吉に従うかの二者択一を迫られます。ついに政宗は、豊臣秀吉に従うことを決断。小田原へと参陣しました。

1590年6月5日、政宗は秀吉と対面します。真っ白な陣羽織の死に装束で秀吉と対面する政宗。秀吉は政宗がギリギリまで来なかったことは許しましたが、蘆名家を滅ぼしたことは認めず、蘆名領だった会津は没収されてしまいました。

翌年、宮城県北部で発生した葛西大崎一揆では一揆を扇動したのではないかと疑いをかけられます。疑いはかろうじて解けましたが、米沢などを没収され、かわりに一揆で荒れ果てた葛西・大崎の地を与えられました。これにより、岩出山城に本拠を移します

これぞ伊達者!~朝鮮出兵で見せた戦装束とは~

小田原征伐で日本全国を統一した豊臣秀吉は、その野心を大陸に向けました。1592年、秀吉は明の征服を企て15万もの大軍を動員、明への通り道にあたる朝鮮半島へと出兵。いわゆる文禄の役です。

全国各地の大名が兵を京都・九州へと差し向けたのですが、その中で最も目を引いたのが政宗率いる伊達勢でした。1500とも3000ともいわれますがその全員が絢爛豪華な戦装束を身をつつみます。

織田信長をはじめ、ある意味では派手なものを見慣れていた京都市民の度肝を抜きました。その戦装束は、黒一色の漆塗りの具足に金の装飾、朱色と銀で彩られた刀と脇差。黒を基調としつつも豪華さと荘厳さを散りばめた軍装だったのですね。

このことから、おしゃれな男性を「伊達者」と称するようになったという伝承が生まれました。朝鮮での戦いは秀吉の思惑どおりにはなりません。一度の停戦期間を経て再開された慶長の役でも明と朝鮮の連合軍を打ち破ることはできませんでした。

関ヶ原の戦い、その時、政宗は?

豊臣秀吉の死は日本を再び動乱の時代に引き戻そうとしていました。秀吉死後の政治を取り仕切っていた徳川家康は伊達家との縁組を望みます。その結果、家康の六男、松平忠輝と政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)の婚約が決まりました。

1600年、家康が命令に従わない会津領主上杉景勝の討伐を決めると政宗と最上義光は北から上杉領への侵攻をはかりました。ところが、同じころ、石田三成が関西で挙兵。家康は三成と決戦するために軍を西へと返します。

取り残された形となった伊達勢と最上勢は上杉勢と対峙。上杉家家老の直江兼続はより攻めやすい最上勢を攻撃。政宗は窮地に陥った最上勢からの救援要請に応じて援軍を派遣し、これを打ち破りました。これが北の関ヶ原とも呼ばれる慶長出羽合戦です。

 

仙台藩主、伊達政宗

image by PIXTA / 23341479

関ケ原の戦い以後、政宗は幕藩体制の大名として領国経営につとめました。仙台城の築城や仙台平野の開拓など、名君と呼ぶにふさわしい業績を上げています。その一方、海外への使節派遣など世界情勢に対しても敏感でした。関ヶ原囲碁の伊達政宗の動きを追います。

仙台築城と領国経営

関ケ原の戦いの後、政宗は本拠地を岩出山城から仙台へと移しました。1601年から青葉山に仙台城を築城し始めます。青葉山につくられたので、仙台城は別名を青葉城というのですね。

仙台付近は名取川や広瀬川が流れ、近くに街道も通るなど交通の重要拠点でした。城を築くのにふさわしい土地です。天守閣こそありませんでしたが、広瀬川を天然の防壁とする山城で実戦を想定した堅牢な城でした。太平洋戦争中の空襲でほとんどの建物が失われたのが惜しまれますね。

関ヶ原の後、政宗は領内の開墾にも力を入れました。米の生産だけではなく北上川河口に石巻港を設けるなど交通の整備も実施。江戸への米輸送路を確保します。最盛期には江戸の米の3分の1を担ったともいわれ、その生産力の高さがうかがえますね。また、京都の文化にも造詣が深かったといわれ積極的に京都文化の流入をはかりました。

次のページを読む
1 2 3
Share: