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異端の戦国武将「織田信長」謎に包まれた生涯をわかりやすく解説

織田信長の第二期 ー 岐阜城の奪取までの地固めの時代

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尾張を固めた信長ですが、隣の美濃、今の岐阜県は斎藤道三がおり、その力が強いことから、また娘婿の立場もあり、進出はしませんでした。その道三が息子の龍興によって討たれた時には、国境まで救助に向かいます。しかし、すでに道三が討たれた後で、攻撃を仕掛けることはできませんでした。それでも、妻のお濃の方(帰蝶)の父を討った龍興の討伐を決心し、岐阜城攻めが始まります。これが、信長の第二期になるのです。

織田信長の稲葉山城攻め 木下藤吉郎の台頭

信長の美濃攻めは一筋縄には行きません。斎藤道三が築いた岐阜城(当時は稲葉山城)は難攻不落と言われ、長良川、木曽川、揖斐川が走り、それぞれに土着の美濃武士がいて、反撃するため、なかなか攻め落とすことができなかったのです。しかし、木下藤吉郎が、短期間で墨俣城を築いたり、岐阜城(稲葉山城)の裏手から攻め込み攻撃したことから、ついに稲葉山城を攻め落としました信長は中部地方の有力大大名として認められるようになります。

因みに、墨俣城は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の一夜城として有名で、一晩で作られたように映画やドラマで描かれる場合が多いのですが、実際には期間が短かっただけのようです。

稲葉山城に入った信長は、天守閣から城の麓を走る長良川が別れて走る様を見て、岐阜城と 名を改めさせます。風流なところもある信長です。しかし、岐阜城に入ったことで、信長の野望は一気に膨らみます。

天下布武の野望の実現に王手も明智光秀の謀反! 本能寺で逝く

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岐阜城に入った信長は、当時最後の足利将軍になる足利義昭に仕えていた明智光秀の来訪を受け、京に登って義昭を将軍に就けることを宣言します。この時にすでに信長には、天下布武の野望が生まれていたのでしょう。「天下布武」は文字通り、武力によって混乱した戦国時代を終わらせ、全国を統一するという意味です。

天下布武の戦いの開始と織田信長の改革

織田信長は、岐阜城を拠点として、中部地方の周辺国の統合に動き始めます。信長は、戦国時代までの武士が、農村に住み、家臣も普段は田や畑を耕しているため、農繁期には戦いができない体制を改革します。信長の革新性が如実に現れているのです。すなわち、家臣団を農村から引き離し、軍事専門組織として再編します。侍と農民の切り離しであり、それが統一の終わった後の刀狩りに繋がり、江戸時代の士農工商という身分制度に繋がったのです。また、簡単に国替えもできるようになりました。

いずれにしても、信長の軍団は、農繁期に関係なく動くことができるようになり、それが信長の力、領地をどんどん広げていったのです。浅井、朝倉といった戦国大名を下し、越後の長尾影虎(上杉謙信)と越中(富山)を巡って戦うとともに、甲斐・信濃を支配する武田信玄とも当初は慎重に対峙することになります。そして、武田信玄は京に上ろうとしますが、三方原で徳川家康を破ったあと、労亥に倒れ、落命しました。そして信長は、信玄の跡を継いだ武田勝頼に長篠の戦いで勝利し、さらに謙信も病で亡くなったことから、信長の全国統一はすぐそこまでのところまでくるのです。

明智光秀の謀反による無念のリタイア

織田信長は、好事魔多しという言葉の通り、優遇していた家臣の明智光秀の謀反によって、京都の本能寺に滞在していたところを襲われ、本能寺とともに炎に包まれます。信長の遺骸は見つかっていませんが、後に姿を現さなかったことから落命したのは事実でしょう。長男の織田信雄も同じ京都の二条城で明智勢に攻められ、織田家は一気に力を失います。明智光秀がなぜ、信長を裏切ったのかは諸説あり、真相は今もわかっていません。

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