織田信長の挫折の背景に何があったのか
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よく言われているのは、信長の厳しい性格を光秀が恐れて裏切ったと言われ、背後に徳川家康も関係していたのではないかと言う説も出ています。しかし、一番信長が落命しなければならなかった背景には、その革新性の行き先には天皇家さえ存在していなかったのではないかという点が考えられるのです。彼の天下布武は、自らが天皇を廃してこの国の王になることを意味していた可能性があり、それを恐れた光秀を始めとする保守派が阻止しようと動いたのではないでしょうか。
時期尚早だった織田信長の革新性
織田信長は希代の天才で、古いもの、古い価値観を破壊して新しい世の中を目指していたと言えます。天下布武も、それは表向きで、実は西欧のルネサンスのように中世の価値観を打破して新しい自由な世界を目指していたのです。信長に近づいたイエズス会の宣教師たちは、欧州ではどちらかというと古い体制の人達でした。しかし、その彼らが、信長に新しい自由な価値観を目覚めさせたのは、皮肉ですね。
しかし、信長の革新性は、当時の日本の中では異端であり、まだまだ受け入れられる環境や風土が整っていなかったと言えるでしょう。そのために、最後に彼の天下布武を阻止しようという勢力に裏切られ、彼の狙いは潰えたように思われるのです。
徳川家康もすべてを革新した訳ではなかった
戦国時代末期に生まれた織田信長は、革新性と他と妥協しない厳しさで時代の寵児になりました。戦国時代の下克上に見られるように、日本も新しい世の中が求められており、そのような風潮の中で彼の古いものを破壊するパワーは大きな役割を果たしたと言えます。ただ、あまりにも先走りし過ぎたために、古い秩序にこだわる明智光秀などによってその道を絶たれたと言えるでしょう。
結果的に、徳川家康が築いた徳川時代は、侍を農村から切り離し、士農工商という信長の考え方を取り入れていました。しかし、農業を基本として自由さを押さえつけることで、三百年という長い安定の時代を実現させたのです。結局、信長の考えた古い体制を打破することは全てにおいてはできなかったと言えます。
現代の私たちに通じる時代を生きた織田信長
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今、私たちは、再び価値観の揺れ動く時代に突入し、新しい技術優先の価値観と、第二次世界大戦以前の古い政治思想であるブロック化した世界を志向する価値観が入り交じった混沌とした時代の中にいます。信長のようにすべてを破壊して、新しい世界を目指すのか、或いは古い世界にたち戻るのか、一人一人がよく考えて生きていかなければならなくなっているのです。その意味で、織田信長の生きざまをどう評価するのか、よく考えてみるのもよいでしょう。
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