イギリスヨーロッパの歴史

イギリスが行った「宥和政策」ってどんな外交?わかりやすく解説!

ミュンヘン会談

オーストリアを併合したヒトラーは今度はチェコスロバキア国内のドイツ人保護の問題について提起しました。特にズデーテンランドはチェコスロバキアの中でもドイツ人が多く、ドイツ人の人権が弾圧されているとの理由からチェコスロバキアに武力侵攻をチラつかせます。

これに対してチェンバレンは介入しない姿勢を見せました。フランスもこれに同調しますが、ドイツがチェコに攻めそうと聞いたムッソリーニが介入しミュンヘンにてミュンヘン会談が行われることになります。

1938年9月にヨーロッパ主要国の首脳がミュンヘンに集まり。ヨーロッパの国際秩序について会談を行なってそこでヒトラーはズデーテンラントが最後の要求であると各国首脳に宣言しました。ヒトラーからしたら一時しのぎの考えでしたが、真に受けたチェンバレンはドイツにズデーテンランドに明け渡すミュンヘン協定に署名してしまいます。

チェンバレンはこのミュンヘン会談を「我々の時代の平和は確保された」と述べますが、一方のチャーチルは「歴史上最悪の敗北」と述べたそうです。イギリス人はこの時は戦争回避することができたと考えていましたが、ヒトラーからしたらドイツにとって戦略上の要衝であるズデーテンランドをほとんど無傷で手に入れたことはさらなる自信につながることになりました。

しかし、チェンバレンはそんなことはつゆ知らず。イギリスはチェコスロバキアを犠牲にひと時の平和を手に入れたのです。

瓦解する宥和政策

こうして完全にチェコへの足掛かりを作り上げたヒトラーはズデーテンが最後の領土要求との約束を破ってチェコ本体も併合しました。ここにきてようやくイギリスとフランスはヒトラーが利用していたと気づくことになり、今更ではあるもののドイツに対する強硬姿勢を見せていくようになります。

しかし、オーストリアとチェコを手に入れたヒトラーは第一次世界大戦に失ったダンツィヒを獲得するためにポーランドへの侵略計画を練り上げることに。ドイツとしてもソ連に侵攻すればイギリス・フランスが参戦すると踏んでヒトラーは不倶戴天の敵であるソ連と1939年5月には独ソ不可侵条約締結。この条約は世界は衝撃を受け、イギリスはついに私たちを狙っていると確信してドイツへの譲歩をついに諦めるようになりポーランドの独立を保障します。

しかし、時すでに遅し。そして完璧状態となったドイツはついに1939年9月1日にポーランドへの侵略を開始。

これを見てついにイギリスとフランスはようやくドイツと戦争する覚悟を決めて1939年9月3日イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告をします。こうして第一次世界大戦が終戦してからわずか20年で第二次世界大戦が起こることになりました。

宥和政策は成功だったのか?

ナチス政権下のドイツに対するチェンバレンの宥和政策の良し悪しについてはイギリス国内でも長い間論争が続いていました。

チェンバレンの跡を受け継いで首相となったチャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』の中で、「第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう」と宥和政策を行ったことでヒトラーはどんどん狂暴となっていき、第二次世界大戦を引き起こしたと述べています。

一方、最近のイギリスでは「チェンバレンは宥和政策で稼いだことでイギリスは空軍の強化行うことができて宥和政策を行わずすぐさま開戦した場合にはイギリスは史実よりもさらに苦境に追い込まれ、最悪の場合には敗れることになっていただろう」という肯定的な意見もありました。事実当時のイギリスの経済は破綻寸前であり、いきなり戦争を行うほどの体力がなかったといえることができます。またこの当時イギリスが恐れていたのはドイツではなくソ連であり、ソ連の脅威を背景とした反共主義がかなりの勢力を持っていました。

その結果イギリスとフランスはドイツに対してある程度のいい顔を見せてソ連に対抗させたほうがイギリスからしてもフランスからしてもいいものだと考えるのは無理なことではありません。しかしドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上で世界大戦に突入し、フランスを粉砕してイギリスを孤立させたことを見るとやはり宥和政策は失敗だったという人が一定数いるというのが実情です。

現代の宥和政策

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チェンバレンが行っていった宥和政策が結果としてヒトラーを増長させていき、やがて第二次世界大戦を招いてしまう原因となったことは、現代世界にも大きな教訓として刻み込まれていくようになります。特に西側の指導者には、宥和政策の失敗が戦争をもたらしたという強いトラウマが残っており、基本的にはここから戦争になりそうな領土問題などは強硬的な形で立ち向かうようになっていくようになりました。

こうしたことの例はたくさんあり、たとえば朝鮮戦争では北朝鮮軍が勧告を奇襲したことに対してアメリカはすぐに動き、全面戦争となりますがやはりこうした行動の裏にはイギリスがチェコスロヴァキア分割や日本の満州進出に対してあまり強硬的な対策を講じてこなかったことによって戦争を招いてしまったという考えがあるのだと思います。

また少し前に起こった湾岸危機の際にアメリカののブッシュはヒトラーによるズデーテン地方要求に対して譲歩したことからイラクのクウェート侵攻に関して強硬的な手段に打って出るようになっていき、イラクはこれを拒否しすると湾岸戦争を開戦してイラクを攻撃したりしました。

しかし、宥和政策をとらずに一方的に強行的な手段に乗り出せばいいものかというとそうではなく、例えばイギリスのフォークランド紛争の場合は国民の反対がありながらもサッチャー首相は強硬手段で軍事行動を行なってフォークランド諸島を無理やり分取ったりしていますし、2003年よイラク戦争では証拠がないのにもかかわらず、戦争を強行して行なってしまい、国際社会からの非難を浴びるようにりました。

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