毛沢東の死と改革開放の始まり
1976年に毛沢東が亡くなると文化大革命は正式に終結。「四人組」を始めとする文化大革命を主導した人たちが次々と失脚していき、数年前に復権していた鄧小平が権力を掌握し、国家主席ではないものの事実上中国の最高指導者となったのでした。
こうして権力を握っていくようになった鄧小平でしたが、最大の課題が経済でした。
毛沢東の大躍進政策と文化大革命によって経済は破綻寸前に追い込まれており、停滞への焦りがあったと思われます。
鄧小平は一応友好関係を築き始めていた日本とアメリカに訪問。国連に中国代表団長としてニューヨークを訪れたときには時にはアメリカの繁栄を見て仰天。さらに日本に至ってはいつの間にか戦後復興・高度成長を経て世界第2位の経済大国になっているのですから驚いたことでしょう。
鄧小平はこの経験から国内でドタバタを繰り返しているその時期を取り戻すために経済改革を行うことを決心。それこそが改革開放だったのです。
これは「政府主導で発展している自由経済を導入してやるから、その間お前らの自由はナシだ」という開発独裁と同じ考えで、アジアの新興国ではこの開発独裁を行ったことで経済成長を成し遂げた韓国やシンガポールなどを見て中国でも同じことができると踏んだのでしょうね。
改革開放の内容
というわけで始まった改革開放政策。次は中国がどのようにして発展していったのかについてみていきましょう。
鄧小平は「先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい」という鄧小平理論を展開。これが今の中国の基盤となっている考え方ですが、さらにこれに基づいて「工業、農業、国防、科学技術」という4部門での近代化(四つの近代化)を掲げていくようになりました。
これによって農村部では毛沢東時代の代名詞となっていた人民公社が解体。農民に対して経営の権利を保障して生産請負責任制という新たな農業政策も始まった。これは毛沢東の大躍進政策みたいに共産党が設定したノルマだけを作るのではなく、自由に農作物をつくらせて生産物を自由処分できるという農業への市場原理の導入をおこないました。ちなみにこの頃から中国の農民には万元戸(大金持ち)という人たちも出現。社会主義国家なのにお金持ちが生まれるなんてなんだか矛盾していますね。
都市の開放
さらに都市部ではこれまで導入することはなかった外資の獲得のために積極的に外資企業を誘致していくようになります。
1984年には資本主義国家に近く、また外資系企業を呼び込むために4つの経済特区(北から廈門、汕頭、深圳、珠海)と14の対外開放都市(大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海)を設置。関税・法人税・所得税などでの優遇措置や企業としての経営自主権などを保障して次々と誘致に成功しました。
もちろんこのやり方は中国に莫大な利益をもたらすことになるのですが、誘致された企業からしても中国は13億人以上の市場と安価な労働力などといった魅力を持った国でありまさしくwinwinの関係だったのです。
その結果改革開放政策によって中国はGDPの平均成長率を9%という高い水準で保ち、中国の経済発展が行われたのでした。
改革開放後の中国
その後も鄧小平は中国の最高指導者として君臨していきいちおう1989年の天安門事件を境に表舞台から身を引くことになるのですが、この時に改革開放を凝縮した南巡講話を発表します。
この講話は「資本主義にも計画はあるのだから、社会主義に市場があってもいいじゃないか。社会主義でも資本主義でも手段はどうあれ最終的にみんな平等に豊かになればそれでいい」といもの。
この講話はすぐさま鄧小平理論として共産党で採択されることになり、ここから始まったのが社会主義市場経済。社会主義市場経済とは一応社会主義国の経済体制を保ちながらそれと同時に株式会社と私有財産制も発展させるという社会主義なのか資本主義なのかよくわからない制度です。
そして中国は天安門事件のいざこざがありながらもWTO(世界貿易機関)への加盟を実現します。
平等をめざす社会主義国が国際的な貿易機関に参加することはまさしく前代未聞。でも時代は1990年代。もう冷戦は終わりソ連も崩壊してしまったという状況で中国のことわざにもあるように「白い猫も黒い猫もえさをとる猫がいい猫」という理念となっているのがよくわかります。
しかし社会主義市場経済では国有企業の事実上の民営化を行うなどどっからどう見ても資本主義にしか見えない状態となってしまったのです。
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改革開放の黒い影
改革開放以降、農業生産額が増加して農家所得も徐々に向上してはいますが、これがいわゆる格差問題へとつながっていくようになります。例えば沿海都市での急速な工業発展や住民の所得増加には追いつけなくなり、都市と農村の格差はなんと10倍に拡大。
さらには農村から都市部へ多くの労働者が豊かさを求め出稼ぎして低賃金の日雇いの仕事に従事することによって労働環境が劣悪なものになっていきました。もちろん中国からしたら格差をなくすために行った社会主義が根本から破綻することにつながるためなんとかしてこの状態をなくさなければなりません。中国政府は内陸部の開発を推し進めるために西部大開発が実施されています。
さらには農業を大切にするために農業税を約2600年ぶりに撤廃されることになりました。これはこれまでの農業中心から商業中心になる画期的な出来事でもあり、毛沢東の考えを根本から覆すものでした。
しかし、この結果地方では汚職が横行。農民の不満が高まっていき、今の習近平国家主席が一所懸命につぶしにかかっているがそれでもやまないというのが現実なのです。
各地に影響を与えた改革開放
ソ連が崩壊した後社会主義の親玉と目されていた中国が実質的に社会主義を放棄したも同然となり、アジア一帯の社会主義国家や社会主義政権に衝撃を与えることになりました。
その一方で中国が著しい経済発展を遂げていることも他の社会主義国にも影響を与え、ベトナムでは1986年から親中派のチュオン・チンとファム・ヴァン・ドンとグエン・ヴァン・リンがこれまでの中越対立からなんとかして関係を立て直していき、中国の改革開放に倣ったドイモイ(刷新)政策を推し進めることになります。
ベトナムはこれまでの社会主義経済を中国と同じく大きく転換させて、長年の敵国であったアメリカとも国交を正常化。外国の投資を受け入れていき、中国に次いで経済発展を推し進めていった社会主義国家となっていきました。
また中国と仲良しの北朝鮮でも1991年に金日成が国を訪問した際に鄧小平から改革開放を迫られたことで中国に倣った改革を行うことを決意。帰国した直後に北朝鮮の国内に羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定して中国の特別区と同じような制度を整えて外国資本を取り入れようとしました。
さらに金日成は1994年から2年間かけて農業や軽工業の発展を推し進めていく経済政策を打ち出していくのですが、肝心の1994年に金日成が死去。後を継いだ金正日は自己保身を優先したことによって苦難の行軍を引き起こし、経済を低迷させて改革開放は挫折しました。