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後世の歴史家から高く評価された至高の皇帝「トラヤヌス」の生涯とは?わかりやすく解説

五賢帝のはじめの一人であるネルウァによる後継者指名

西暦96年、ドミティアヌスが暗殺され皇帝位が空位となると、元老院はネルウァを皇帝に指名しました。西暦98年、ネルウァはトラヤヌスを養子にし、皇帝の後継者として指名します。これは、軍隊に人気があるトラヤヌスを後継者として指名することで、軍の暴走を抑えたいというネルウァの意向があったからでしょう。

ネルウァが統治2年で死去すると、トラヤヌスが皇帝に即位します。帝位に就いたトラヤヌスは、ドミティアヌスの二の舞を踏まないよう、慎重かつ穏当な政治を心がけました。その甲斐があって、民衆も元老院もトラヤヌスの統治を歓迎します。

また、ドミティアヌスによって財産を奪われた人々に、財産を返還。ドミティアヌスが不当に拘束した人々の釈放を決定するなど、ドミティアヌスの統治を否定する政策を行いました。

ローマ帝国の領土を最大にしたダキア戦争

トラヤヌスの時代、現在のルーマニア一帯はダキアと呼ばれ、ダキア王国が成立していました。ローマ帝国の領土拡大により、ダキア王国とローマ帝国はドナウ川を境ににらみ合うようになります。

西暦85年から86年にかけて、ダキア軍はドナウ川を渡りローマ領の南モエシア属州(現在のセルビアやブルガリア)に侵入しました。ドミティアヌスは軍団を派遣しダキア王国軍と会戦します。しかし、ローマ軍はダキア軍に大敗。その後も決着がつかす、西暦89年にローマがダキアに賠償金を支払うことで講和しました。

ローマ市民はトラヤヌスに屈辱を晴らしてダキアに勝利することを期待します。西暦101年、着々と国力を増すダキア王デケバルスを討伐するため、トラヤヌスは自らダキアに攻め込みました。

トラヤヌスはドナウ川に20本の橋を架けるなど力の差を見せつけダキアを圧倒。その後も勝利をつづけ、ダキア王国を滅ぼし、ダキアを属州としました。

トラヤヌスの記念碑

西暦102年、第一次ダキア戦争に勝利したトラヤヌスに対し、元老院は最大のダキア征服者という意味の「ダキクス・マクシムス」の称号を贈ります。西暦105年の第二次ダキア遠征に勝利することで、トラヤヌスはダキアの属州化を達成しました。

元老院はトラヤヌスの功績を記した記念柱を建てます。柱の建設を任されたのはダマスカスのアポロドロス。トラヤヌスお抱えの建築技術者でした。アポロドロスは記念柱だけではなく、トラヤヌスのフォルムトラヤヌス市場トラヤヌス浴場の建設も任されます。

トラヤヌスの記念柱には、二度にわたったローマとダキアの戦争の様子が描かれました。主役はもちろん、皇帝トラヤヌス。ダキア戦争を叙事詩のように描いたレリーフは、螺旋状に柱に巻き付くようなデザインで描かれました。トラヤヌスの記念柱のデザインは後世の記念柱の基本形となります。

トラヤヌスの国内政治 

ダキア戦争を終えたトラヤヌスはローマにもどり内政に努めます。内政において、トラヤヌスは性急な政策を行わず、市民や元老院を尊重し、彼らと協調した政治を行いました。

ローマの歴代皇帝は在位中、公共施設を建てて市民にプレゼントするのが通例です。トラヤヌスもこの先例に習い、次々と建物を作りました。先ほど述べたトラヤヌスの記念柱はローマの政治の中心である皇帝たちのフォルムの一角(トラヤヌスのフォルム)に作られます。

他にも、市民たちの商売の場としてトラヤヌスの市場を作りました。トラヤヌスの市場は現在も姿をとどめており、古代ローマ時代の市民生活をうかがうことができます。現在は博物館として一般公開されていますよ。

宿敵パルティアとの戦い

ダキア戦争に勝利し、ドミティアヌス時代の恥を注いだトラヤヌスにとって、もう一つ倒すべき敵がいました。東方の大国パルティアです。ローマ帝国はパルティアに幾度も苦杯をなめさせられました。

紀元前53年のカルラエの戦いでは第一回三頭政治の一角であるクラッススの大軍を撃破。その後も、幾度となくローマ軍を苦しめます。特に、パルティア騎兵が行う後ろを向きながら射撃する「パルティアンショット」はローマ軍の脅威となりました。

西暦114年、トラヤヌスはアルメニアをめぐってパルティアと交戦。パルティアの都であるクテシフォンを制圧しました。これによりローマ帝国の版図は最大となります。しかし、パルティアは一筋縄でいく相手ではありません。せっかく占領したメソポタミアでは反乱が続発。メソポタミアの維持は難しいと考えたローマ軍は一時後退します。

トラヤヌスはパルティアに反撃しようと準備しますが、病にかかり進軍できなくなりました。病状が悪化したトラヤヌスはイタリアに戻ろうとしましたが、その帰途のキリキア属州(現在のトルコ南部)にたどり着いたところで亡くなります

死後も称賛された至高の皇帝トラヤヌス

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西暦117年、キリキア属州で亡くなったトラヤヌスは火葬にされました。元老院は遺灰をトラヤヌスの記念柱がある広場に埋葬すると決定します。戦争に勝利し、国内統治にも成功したトラヤヌスは自らに厳格で、人格面でも高く評価されました。権力を握った後、豹変する人物が後を絶たない中、己の美徳を維持しながら皇帝の職責を全うしたトラヤヌスは稀有な人物だったといえるでしょう。

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