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【歴史】ロシア最重要人物「ピョートル1世(ピョートル大帝)」とは?わかりやすく解説

北の大国ロシアの第二の都市であるサンクトペテルブルク。このサンクトペテルブルクはとある皇帝の遷都によってロシアの重要拠点となっていくことになります。 この皇帝はロシアの近代化に尽力していき、最終的にはロシアの歴史を語るにはなくてはならない存在となっていきます。 今回はそんなロシアの近代化に尽力した皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)について見ていきたいと思います。

ピョートル1世ってどんな人?

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ピョートル大帝は、17世紀~18世紀にかけてロシアを治めた皇帝でした。

ロシア帝国をヨーロッパ列強の一員へと導いた人で、行政・軍事・宗教など様々な改革を行い、「玉座の革命家」とも評されるような人物たったのです。後の歴史家は「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」と称するようにロシアの歴史を見るには欠かすことができない人物でした。

日本からしたらあまり知らないという人が多いと思いますが、彼の名前は別名ピョートル大帝。大帝というのはカール大帝レベルと国の創始者にしか使われないような名前であるのを見ると、ロシアからしたらロシアを近代化に導いたまさしくすごい皇帝でもあったのでした。

ピョートル1世の生い立ち

ピョートル1世はは1672年にアレクセイ1世とナタリヤ・ナルイシキナの14番目の息子として生まれました。

14番目ですからあんまり皇帝になるような人物ではなく、結構自由に暮らせたそうです。

しかし、1676年に父であるアレクセイ1世が死去。後を兄であるフョードル3世が即位することになりました。しかしフョードル3世も即位してすぐに死去。後継争いが起こります。

ロシアではピョートルを推す人と、兄であるイヴァンのどっちが皇帝になるのかで大揉め。最終的にはピョートルが皇帝となるのですが、その直後に貴族たちがピョートルを追い出すためにクーデターが起こってピョートルはモスクワを離れなければならなくなりました。

いろんなことに触れる皇帝

こうして実質的に亡命生活となったピョートルでしたが、この亡命生活のおかげでとある経験を得ることとなります。

ピョートルはモスクワ郊外の外国人村に足しげもなく通って外国人との交流を深めていくことになりました。

当時のロシアはあんまり発達していない発展途上国。当時の強国であったスペインやオランダといった国々の話や文化などを聞き、西欧諸国に憧れるようになります。そしてその経験が彼の今後に活かされることとなるのです。

しかし、そんなピョートル1世の生活が大きく変わることになる事件が起きました。なんと姉が失脚することになるのです。

姉のソフィアはイヴァンと共同統治している関係でしたが、シベリアに進出している最中当時アジア最強の国であった清とネルチンスク条約を締結することになります。

ネルチンスク条約は中国と初めて対等に条約を結んだ意義のある条約でしたが、その内容があまりにもロシアに不利すぎだため、これによってソフィアは国内からの支持を失うこととなり最終的には失脚することとなりました。

さらにはイヴァン5世も1696年に死去することになるとついにピョートル1世が単独政治することとなります。

こうしてピョートル1世は亡命生活から一転、ロシアという国を動かす存在となっていったのでした。

ロシアの大使節団

ピョートル1世が治めることとなったロシアですが、この当時は西欧諸国と比べてあまり発達していない新興国。さらに寒い冬に閉ざされてしまいヨーロッパの国には敵わないという状態でした。「これじゃ、ヨーロッパにかなわない!」そう感じたピョートル1世は西欧諸国に対して使節団を送ることを行います。

かつて西欧諸国に並ぼうとした日本がヨーロッパに対して岩倉使節団を送ったように基本的には新興国はヨーロッパの文化を学ぶために先進国へと派遣することがしばしばあるのですが、このロシアの使節団はなんとリーダーかピョートル1世だったのです。

このロシアの使節団は主にロシア南方のオスマン帝国に対抗する目的とヨーロッパの文化を吸収するためのもの。

ピョートル1世は各国に同盟を持ちかけるためにイングランド・オランダ王であったウィリアム3世、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世と会談を行い、なるべくロシアに有利な形で話を進めようとします。

さらにピョートル1世はヨーロッパの海軍に目をつけてこの頃海軍が大きく発達していたオランダのアムステルダやイングランドのロンドンに長期滞在。

アムステルダムでは東インド会社所有の造船所では皇帝自ら船大工として働くなど造船技術の習得に熱心となり、さらにはヨーロッパの文化を学ぶためにヨーロッパ各地の病院や博物館、天文台、大学を見学。このヨーロッパの知識をロシアに持ち帰るなどの功績を上げていきロシアの近代化に尽力しました。

ピョートル1世とひげ

ピョートル1世はロシアに帰国した時強引にでも近代化を推し進めるために人々の文化を改造していこうとしていくようになります。そんな改革の一環として行われたのが「ひげ税」。

当時のロシアでは男性は基本的にひげを剃らないことが一般的でしたが西欧諸国はひげというのは基本的には剃るものだとされており、これが近代化だと感じたピョートル1世は強引にでもひげを剃らせるためにひげを剃らない人に税を課す制度を作ったのです。

 

ピョートル1世の改革

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ピョートル1世はロシアには近代化が必要不可欠だと考えており、それに基づいて様々な分野で改革を行おうとしてきました。

次はピョートル1世がどのような改革を行って行ったのかについて見ていきましょう。

経済政策

ピョートル1世はロシアを強い国にするために商業を大切にする重商主義を推し進めることとなります。

ロシアではピョートル1世がヨーロッパを訪問した知識を生かして様々な製品を製造。工場をバンバン建ててロシアの生産力を増大していくようになりました。

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