室町時代戦国時代日本の歴史

足利将軍を殺し信長に敵対した「三好三人衆」とは?歴史系ライターが解説

織田信長との対決

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畿内の主導権争いを続けていた三好三人衆と義継・久秀一派でしたが、織田信長の上洛に伴って情勢は一変します。信長の新しい時代が到来する中、彼らはどのように生きようとしたのでしょうか。

対決の道を選んだ三好三人衆

尾張を統一し、隣国美濃をも手中にした信長の噂は三好三人衆にも聞こえていたでしょう。実際、三好長逸は稲葉良通を介して誼を通じようとしたようですね。しかし信長はあえてそれを黙殺しました。それもそのはず。信長が押し立てようとしている足利義昭は、三人衆らによって殺された義輝の弟です。そんな勢力と友好的になれるはずもありません。

信長上洛の動きを察した三人衆側は、南近江の六角氏と結託して徹底抗戦の構えに出ます。しかし信長率いる織田の軍勢は6万という空前の大軍です。1568年に進軍を開始した織田軍は六角義賢は瞬く間に蹴散らし、いよいよ京都へ迫ってきたのでした。

いっぽう義継・久秀らは信長に対して恭順の意を示し、首尾よく信長を味方に付けることに成功。三人衆らは致し方なく京都を中心とした防衛線を構築することになりました。

やがて織田軍の猛攻が始まります。京都の西にあたる淀城・勝竜寺城、芥川山城が相次いで陥落。あっという間に防衛線を破られた三人衆側は京都周辺から退散し、ここに三好家の内乱が終わると共に三好政権も終焉を迎えたのでした。

石山本願寺と結託。なおも抵抗を続ける三好三人衆

いったんは畿内から追い落とされた三好三人衆でしたが、基盤のある四国などから兵を募り、逆襲の構えを見せます。1569年、信長が京都を去っていったん岐阜へ帰城した隙に、空白となった京都へ進軍。3千の兵で将軍義昭のいる本圀寺を囲んだのです。

かつて義輝を殺した永禄の変の再現なるか?というところでしたが、明智光秀ら家臣たちが奮戦し、戦況は一進一退の状況に。翌日になって三好義継や細川藤孝らの援軍が駆け付け、三人衆の軍勢は撤退を余儀なくされてしまいました。

思えばこれが三人衆にとって最後のチャンスだったのかも知れません。この戦いの後、三人衆の一角だった石成友通が織田方へ寝返り、三好政康もまた病没してしまいました。その勢力に陰りが見え始めてきたのは明らかでした。

翌年、三人衆で唯一残った三好長逸は再び兵を挙げ、現在の大阪市福島区あたりに陣を構えました。ところが大兵力を擁する織田軍の猛攻の前に敗北寸前に。しかしこの時、背後から突如として石山本願寺から一向一揆勢が織田軍へ襲い掛かったのです。

形勢不利となった信長は和睦を図り、半ば敗戦という状況で兵を引いたのでした。ここから10年に及ぶ石山合戦が始まるのです。

しかし三好家の衰えは誰の目にも明らかでした。一向一揆と結託して勢力を盛り返すものの、本国の阿波では家中が混乱して遠征も思うに任せず、当主の義継自身が織田家の傘下にあったため、もはや織田の一部将に過ぎなくなっていました。

かつて天下を牛耳った三好家の姿はどこにもなかったのです。

三好家の人々のその後

三好三人衆のうち信長に敵対した三好長逸は、その生涯の最後に至るまで抵抗を続けました。1570年で彼の事績は途絶えますが、阿波における三好家の衰退と共に、その役割を終えていったといえるでしょう。

織田方に寝返った石成友通は、その後足利義昭に臣従。義昭の信長包囲網の一角として再び抵抗活動に身を投じます。1573年に義昭が挙兵するとそれに呼応し、淀城に籠城しました。しかし城を細川勢に攻められて落城し、友通もまた討ち取られてしまったのです。

また当主だった三好義継も同じく信長包囲網に加担し、挙兵に失敗した足利義昭を保護します。しかし信長の怒りに触れて居城を攻められることになりました。その最期は若江城に置いて妻子と共に自害。三好家の嫡流はまったく途絶えることとなったのです。

松永久秀のみ命脈を保ちますが、1577年に再び信長に対して謀反。居城の信貴山城に立て籠もったあげく壮絶な最期を遂げていますね。

歴史の表舞台に颯爽と登場し、やがて風船が萎んでいくように衰退の一途を辿った三好家。戦国の悲哀を感じずにはいられませんね。

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