ソ連寄りの国民党
こうして中国国民党が正式にその歴史を歩み始めることになったのですが、この当時孫文はソ連との連帯が中国のために必要と考えていました。
この当時、中国は軍閥が支配していたり、日本や欧米列強がいわゆる帝国主義を掲げて中国に進出したりしていました。
孫文は帝国主義を打倒するために、ソ連やコミンテルンの影響を受けるようになり、そしてソ連との連帯を行うことを決めた孫文・ヨッフェ共同宣言が発表されたのです。
1924年1月20日には中国共産党との第一次国共合作が成立。帝国主義を目指しているとされた軍閥に対抗するための同盟でしたが国民党はこの時反軍閥の方針をとるようになったのです。ちなみにのちに国民党と争うことになる中国共産党のリーダーである毛沢東もこのときに中国国民党に入党していたんだそう。
しかし、ソ連寄りの方針をとっていた孫文が1925年にこの世を去ると国民党の方針は大きく変わっていくことになるのでした。
蒋介石の登場
孫文の死後上海で発生した五・三〇事件を背景として国民党の有力政治家であった汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立。孫文が願っていた中国統一のためにいまだに軍閥の力が強かった華北地方に向かって1926年には北伐を開始し始めました。その後国民党では汪兆銘と蒋介石が孫文の後継者争いを行うのですが、蒋介石が勝利したことで蒋介石が国民党のリーダーとして率いていくようになります。
蒋介石のもとで北伐が行われていき1928年6月9日には北京政府を打ち破って北京に入城。さらには奉天軍閥の張学良が降伏したことで一応国民党が中国統一を成し遂げ南京を首都にした中華民国国民政府を樹立したのでした。
でも、蒋介石はかなり独裁色が強い政治家であり、軍閥を併合したことで国民党内での争いが頻発。さらには蒋介石がかなりの共産主義者嫌いなこともあって北伐を行っていた時に上海クーデターを起こして共産党員を次々と逮捕。この上海クーデターによって第一次国共合作は崩壊することになりました。
さらには満州にて日本軍が勢力を伸ばしていき、1931年に起こった満州事変以降対決姿勢をとっていくようになったのです。
こちらの記事もおすすめ
諸葛亮と蒋介石が行ったそれぞれの「北伐」を元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
戦争を乗り越えた先に
日本との対決姿勢を取るようになった国民党。そして1937年の盧溝橋事件によって一気に戦争モードに突入していくことになります。蒋介石は仕方なく共産党と仲直りして第二次国共合作を完成。南京や中国の沿岸などを奪われながらも日本との戦争をなんとか乗り切ろうもします。蒋介石は重慶に本拠地を移転してそこで国民党の方針を決定。憲法の草案を書いたのもこの時です。
そして1945年9月2日に日本が中国に対して降伏。台湾は国民党政府に明け渡されて日本軍は中国本土から撤退しました。蒋介石は戦争からの復興とともに国内の安定を図っていくようになります。日本が降伏した直後に中国共産党のリーダーである毛沢東との会談を行い、双十協定を締結。さらにはこれまでの独裁体制を改めて1946年に中華民国憲法を制定。
それまでの国民党一党独裁を改めて民主的な政党政治に移行を目指していくようになったのです。
こちらの記事もおすすめ
盧溝橋事件とは何だったのか!長い日中戦争への入り口 – Rinto~凛と~
台湾の政党へ
こうして中国の政党としての道を歩み始めたかに思えたのですが、双十協定が失敗に終わってしまい、その後蒋介石は再び共産党を潰しにかかるようになりました。最初の頃は国民党の優勢に戦争が進んでいったのですが、アメリカの援助の打ち切りや農民の離反。そして共産党が豊かな満洲の土地を手に入れたことで情勢は一気に逆転。最終的には国共内戦は共産党軍の圧勝に終わりました。
国民党はというと蒋介石が成都から台湾に逃れたことで国民党自体も台湾に移転。中華民国は台湾と福建省のごく一部を支配する政党に転落することとなったのです。