その他の国の歴史中東

今も続く大問題「パレスチナ問題」って一体何?わかりやすく解説!

中東の地域は基本的に争いの連続。しかしその中でも特にひどく、そして長い期間争っているのがパレスチナです。 果たしてそんなパレスチナはどうして争いが起こっていくようになったのでしょうか? 今回はそんなパレスチナの歴史について解説していきたいと思います。

パレスチナってそもそもどこのこと?

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パレスチナは中東にある地域であり、現在ではユダヤ人国家であるイスラエルとアラブ人が暮らしているパレスチナ自治区が並列して存在しています。

昔は全領土がオスマン帝国領でその後イギリスの委任統治領となりましたが第二次世界大戦ののちにパレスチナは東をヨルダンに接するヨルダン川西岸地区と、エジプトに接するガザ地区に分割。そのほかの領土はイスラエルの領土となりました。

パレスチナは四度にわたる中東戦争で争い合うことになるのですが、オスロ合意で一応の決着はつき、現在の様相となりましたが、いまだにイスラエルはパレスチナ全土の奪還に動いており、現在でもヨルダン川西岸地区ではイスラエルの入植活動やガザの占領政策等によって実質的な面積が縮小し続けているのです。

パレスチナ問題以前のパレスチナ

古代のパレスチナはカナンと呼ばれており紀元前10世紀ごろにユダヤ人によるイスラエル王国がエルサレムを中心都市として繁栄しました。パレスチナの地はユダヤ人からしたら唯一神から与えられた約束の地。ユダヤ人のこの地の愛情は人一倍のものでした。

しかしイスラエル王国は相次ぐ周辺の侵略を受け滅亡。のちにローマの領地となるのですが、ローマ皇帝ハドリアヌスはユダヤ民族を弾圧するためにユダヤ人を弾圧。ユダヤ人は世界に離散することとなってしまい、パレスチナの地はアラブ人のものへと変わっていくことになります。その後、パレスチナは十字軍によって一時期イスラエル王国が建国されることになるのですが、基本的にはアラブ人による国家が形成されていくようになり、16世紀になるとオスマン帝国がパレスチナの地の支配者となったのです。

シオニズム運動の高まり

一方で世界各地に散らばっていったユダヤ人たち。ユダヤ人という人たちは運の悪いことにユダヤ人がキリスト教の教祖であるイエス・キリストを殺害したことが原因となり、特にヨーロッパでは迫害の対象として見られるようになります。ユダヤ人が迫害を受けていたのは何もヒトラーのときだけでははなかったのですね。

しかし、ユダヤ人にはある強みがありました。金融分野です。ユダヤ人は勤勉で知られており、さらには金融分野はキリスト教からしたら汚らわしいものとしての認識があったため迫害を受けていたユダヤ人が担うことになります。

その結果ユダヤ人は金融分野で強い存在となっていくのですが、やっぱり迫害の対象からは抜け出すことはできず、その結果パレスチナの地域に戻ってくる人も出てきました。

そんな中、ユダヤ人がパレスチナに国家を作ろうという流れが生まれていくことになります。

当時の19世紀末ヨーロッパでは反ユダヤ主義が特に強い傾向にあり、ドレフュス事件などといったユダヤ人を差別する事件が起こり続けていました。

その事件が起こったのち、ユダヤ人がパレスチナに国家を作るための運動であるシオニズム運動が活発化。

1897年にバーゼルで第1回シオニスト会議開催することになり、いずれパレスチナにユダヤ人国家を作ることを目指すようになっていったのでした。

イギリスの三枚舌外交

そんな中1914年に第一次世界大戦が始まります。オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立しました。

連合国側のイギリスは同盟国側の一角であるオスマン帝国に対し側面から攻撃を加える意図の下、トルコの統治下にあったアラブ人やパレスチナに住んでいた現地ユダヤ人やキリスト教徒たちに対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけてこの対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独立を認めました。

さらにイギリスはユダヤ人の豪商であったロスチャイルド家に対して莫大な資金の援助を求めてユダヤ人に対してパレスチナの独立を支援することを約束。

最終的にオスマン帝国から解放した土地はユダヤ人国家を建国するというバルフォア宣言が出され戦争が終わった後には独立することが記載されました。

でも実際にはイギリスは同じ連合国であったフランスとロシアとの間でオスマン帝国が持っていた領土の分割を協議しており領土分割が盛り込まれたサイクス=ピコ協定が締結。

つまりイギリスはユダヤ人、アラブ人、そして協商国に対して三枚舌外交を行っていったのです。まさに外道ですね。その結果この三枚舌外交がとんでもない事態を招くことになるのでした。

イギリス領パレスチナの成立

三枚舌外交によってややこしい展開となってしまったパレスチナ。結局パレスチナ第一次世界大戦後のセーヴル条約によってイギリスとフランスでオスマン帝国領の一部を分割して委任統治とすることで合意。パレスチナは結局イギリスの植民地の一部となってしまったのです。

しかし、ユダヤ人と約束した以上ユダヤ人の入植を拒むことはできません。

そこで、イギリスはバルフォア宣言を国家建設ではなく、あくまでもユダヤ人の居住区を作るという形で解釈を行い、アラブ人との融和を図っていくことになります。

パレスチナではもともと住んでいたアラブ人の他に大量の移民が発生。人口は増加の一途を辿っていました。

しかしこのころはまだアラブ人はユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとする人も多く、この頃はまだなんともない状態が続いていたんだとか。しかし、いずれパレスチナにユダヤ人国家ができると信じたユダヤ人が次々とパレスチナに入植。この流れは徐々にユダヤ人とパレスチナにもともと住んでいたアラブ人の対立へと変わっていくことになります。

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