ヨーロッパの歴史

第一次世界大戦のその後を決めた「パリ講和会議」とは?わかりやすく解説!

凄惨な結果をもたらした第一次世界大戦。この戦争も1919年になるとドイツで起こった革命によって終息に向かっていくことになります。 その講和会議となったのがパリで行われたパリ講和会議でした。 今回はそんなパリ講和会議について解説していきたいと思います。

そもそもパリ講和会議とは?

image by PIXTA / 22811775

パリ講和会議とは第一次世界大戦においてイギリスやフランスといった連合国がドイツやオーストリア=ハンガリー帝国といった中央同盟国に対する講和等について話し合いされた会議のことです。

この会議によってドイツやオーストリア帝国に対する講和条件がまとめられた一方で、国際連盟を結成したりすることが決定するなど戦後の国際的な関係を作り上げる結果も見せることとなりました。

主要国はイギリス・フランス・イタリア・日本・アメリカ。

ちなみに、日本は西園寺公望と牧野伸顕が参加し、これによって正式に列強として認められることになりました。

パリ講和会議の各国の思惑

image by PIXTA / 28057941

パリ講和会議では様々な条項が盛り込まれることになりましたが、実はそうなる以前にアメリカとイギリス・フランスの間ではこの第一次世界大戦に関する認識に激しい差が生まれていたのです。

まずばどのようにして各国はパリ講和会議に臨むようになったのかについて見ていきたいと思います。

ウィルソン大統領の果てしなき構想

1914年からヨーロッパにて第一次世界大戦が勃発し、各国泥沼の戦争を行なっていくことになります。そんな中アメリカ合衆国はこの戦争に対して違う目線で見ていました。

アメリカという国は基本的にモンロー主義といってヨーロッパの物事には首を突っ込まない主義をとっていたのですが、ドイツ軍がアメリカの商船を攻撃したことを受けてアメリカは第一次世界大戦に参戦。その結果この頃すでに超大国であったアメリカがイギリスやフランスに対して大量の武器弾薬を供給するようになり、戦況は五分五分の状態からいっきに連合国の有理となりました。

そんな中でアメリカの大統領となっていたのがウッドロウ・ウィルソンだったのです。

ウィルソン大統領はどんな性格かというとものすごい理想主義。平和というものを掲げて二度と第一次世界大戦のようなことを起こさないように努力していこうとしていた人でした。

ウィルソンはアメリカが戦争に参戦する以前から勝利なき講和、和解の平和を唱え、これまでの戦争の講和には欠かせなかった懲罰的賠償や秘密外交を基本とするヨーロッパの旧外交をやめ、新しく平等な新外交と呼ばれる講和を結ぶべきと主張していました。

ドイツへの復讐のため

アメリカはフランスとドイツは平等に講話を結ぶべきだと考えていましたが、フランスのクレマンソーはその考えを論外だとしていました。

まず、フランスという国家は非常にドイツ憎しの気持ちで第一次世界大戦を戦い抜いてきました。第一次世界大戦が起こる少し前には普仏戦争によってボロ負けし、その結果アルザヌロレーヌ地方の割譲と多額の賠償金を支払わなければならないようになり、フランスは打倒ドイツのために必死に頑張っていたのです。

それを理想のために捨てろというのはまさしくあり得ないことだったのでした。さらにクレマンソー自身がドイツ嫌いであったため、フランスの基本的な姿勢はドイツに対して過酷な条件を課すことだったのです。

パリ講和会議の始まり

image by PIXTA / 32288919

こうしてアメリカとフランスがまさしく真逆の思いを持ちながら講和会議に臨んだことがわかったところで1919年。ついにドイツはおろか世界の趨勢を決めることとなる講和会議が開かれることとなりました。

アメリカとフランスの対立

1919年1月18日。この日ヴェルサイユ宮殿の時計の間で講和会議の開会宣言が行われ、そのままドイツに対する講和条件を決めることになりました。ちなみにこの開会宣言がおこなわれた1月18日はこのヴェルサイユ宮殿にてドイツ帝国が成立した日ということもあり屈辱的な思いをしたフランスやドイツにとって重要な日付でもあった。

開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式でした。ウィルソンは新外交の立場から会議は全世界に公開して自由な報道を許すよう主張。

しかし、自由に報道を許してしまうと過去にイギリスやフランスが第一次世界大戦で行ってきた秘密外交が暴露され講和会議が不利になると判断し結局イギリスとフランスが猛反対。アメリカが折れる形となり秘密外交という形で話が進められることとなりました。

国際連盟問題

第一次世界大戦後の国際平和団体の設立はウィルソン大統領が元々から考えていた理想図でもありました。

パリ講和会議ではそのことについても深く話が進められていき、戦後の1920年に国際連盟が成立するに至ることになります。

しかし、この国際連盟に対してイギリスやフランスの一部の政治家はあまりにも非現実すぎると非難し、さらにはアメリカもこれまでの孤立外交を潰してしまうという危惧からこの国際連盟の加盟には非常に消極的でした。

結局、国際連盟は成立したものの、アメリカの不参加や制度としてはあまりにも未熟だったこともありあまり機能しないという欠点を残してしまうことになるのです。

次のページを読む
1 2
Share: