ドイツヨーロッパの歴史神聖ローマ帝国

バルト海沿岸に騎士修道会国家を作った「ドイツ騎士団」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

騎士団領の発展

13世紀、ドイツ騎士団や北欧諸国はバルト海沿岸で異教徒を征服しカトリックに改宗させる北方十字軍を敢行します。ドイツ騎士団は、その中心となって活動しました。ドイツ騎士団は建国以来、領土を徐々に広げバルト海沿岸を制圧していきます。

13世紀中ごろにはラトビアからエストニアにかけての地域であるリヴォニアのリヴォニア帯剣騎士団を吸収合併することで騎士団国家を拡張しました。

騎士団国家の首都となったマリエンブルクには本部が置かれ、選挙で選ばれた総長を中心に騎士団国家が運営されます。

ドイツ騎士団の最盛期は14世紀。ハンザ同盟と強く結びつくことで、西ヨーロッパへの穀物の販路を確保し、経済的に潤います。

14世紀になると、首都のマリエンブルクだけではなく、ケーニヒスベルクエルビングといった貿易都市も成長しました。

ドイツ騎士団の衰退

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順調に発展したドイツ騎士団にとって、大きな壁となったのがヤゲウォ朝です。リトアニア大公国とポーランド王国がヤゲウォの下で連合すると、騎士団国家にとって大きな脅威となりました。1410年のタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団はヤゲウォ朝に敗北。その後の十三年戦争によって騎士団は衰退しました。最終的に、ドイツ騎士団は世俗化しプロイセン公国となります。

ヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国の成立

現在のバルト三国の最も南に位置するリトアニアは、13世紀にはベラルーシやウクライナを支配する大国でした。非キリスト教国のリトアニアはドイツ騎士団と戦うことで武力を磨き、領土を南方に拡大させリトアニア大公国を成立させます。

14世紀後半、ポーランドではピアスト朝が断絶。ハンガリー王がポーランド王位を継ぎました。ハンガリー王の死後、王の娘であるヤドヴィカがポーランド女王となりました。

ポーランド貴族たちは、ヤドヴィカと隣国リトアニア大公国のヤゲウォの結婚を条件付きで承認します。貴族たちが出した条件は、ヤゲウォのカトリックへの改宗でした。ヤゲウォは条件を受け入れカトリックに改宗。ポーランドとリトアニアは君主を同じくする同君連合を結成しました。これが、ヤゲウォ朝の始まりです。

タンネンベルクの戦いと十三年戦争

ヤゲウォ朝の成立はドイツ騎士団にとって脅威でした。ドイツ騎士団は東のリトアニア大公国と南のポーランドによる挟み撃ちを受けることになるからです。ドイツ騎士団とヤゲウォ朝の緊張関係は日増しに強まっていきました。

1410年、ポーランド=リトアニア連合軍はドイツ騎士団領の首都マリエンブルクに向けて出撃します。ドイツ騎士団もこれを迎撃。中世最大級の会戦であるタンネンベルクの戦い(グルンヴァルドの戦い)が始まりました。戦いはポーランド=リトアニア連合軍の勝利。ドイツ騎士団は総長ユンキンゲン以下、多くの幹部を失いました

1454年から1466年にかけて起きた十三年戦争で、ヤゲウォ朝はかつてドイツ騎士団に奪われたグダニスク(ダンツィヒ)を取り戻し、バルト海への出口を確保します。

騎士団領の世俗化とプロイセン公国の成立

タンネンベルクの戦いや十三年戦争の敗北により、ドイツ騎士団領は多くの領土を失いました。十三年戦争の敗北でグダニスクや首都のマリエンブルクを失った後、ドイツ騎士団はドイツ本国(神聖ローマ帝国)と切り離され、東プロイセンのみを支配する小国家に転落します。

1510年、騎士団総長に選出されたのはホーエンツォレルン家アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクでした。

アルブレヒトは1523年にルター派に改宗。その後、ドイツ騎士団領は騎士修道会としてではなく、ホーエンツォレルン家の支配する世俗国家プロイセン公国となりポーランド王の臣下として国を存続させます。

プロイセン公国は同じホーエンツォレルン家の1701年にブランデンブルク選帝侯国と合併し、プロイセン王国となりました。プロイセン王国は19世紀のドイツ統一で中心的な役割を果たします。

現代も残るドイツ騎士団

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ドイツ中南部のフランケン地方にあるバート・メルゲントハイム。1527年以後、ドイツ騎士団の本部はこの街に置かれました。ドイツ騎士団領の世俗化後も、騎士団自体はこの街で存続します。1806年、ドイツ騎士団の本部はオーストリアのウィーンに移りました。1929年以後、カトリックに復帰したドイツ騎士団は現在もウィーンで存続しています。

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