中国の歴史

明王朝末期の中国で布教を行った宣教師「マテオ・リッチ」を元予備校講師がわかりやすく解説

中国文化を学び、利瑪竇(りまとう)と名乗ったマテオ・リッチ

マカオに到着したマテオ・リッチは、さっそく中国語と中国文化についての研究を始めました。これは、東洋布教の先輩であるヴァリニャーニが示した相手の文化を尊重しつつ布教するという適応政策(順応政策)を行うための下準備です。

中国文化を身に着け、中国語を操るマテオ・リッチは、科学知識を提供することで中国人の間で評判となりました。彼の知識を学びたいという者たちが、次々と弟子入りしたからです。

マテオ・リッチは中国名として利瑪竇(りまとう)を名乗り、中国社会に深く入り込みました。また、聖書の言葉を中国語に訳します。例えば、神(ラテン語のデウス)は、天主と訳しました。中国での布教を円滑にするためには、キリスト教にはない中国独自の祖先崇拝の習慣も受け入れます

万暦帝に謁見しキリスト教の布教を目指したマテオ(マッテオ)・リッチ

ポルトガルが中国南部のマカオを拠点としたのは1557年のこととされます。海賊を討伐したのと引き換えに明の皇帝からマカオを与えられたとも、ポルトガルが武力占領したともいわれますが、実情はわかっていません。

マテオ・リッチは張居正が亡くなった年である1582年にポルトガルの登用での拠点となっていたマカオに到着しました。その後、南部の大都市である広州でキリスト教の布教に勤めます。

マテオ・リッチはヨーロッパで進んでいた数学や天文学、地理学の知識を持ち、世界地図や地球儀などの機器を所有していました。

マテオ・リッチが万暦帝に拝謁したのは1601年のこと。ヨーロッパ情勢などについての万暦帝の質問に答え、時計を献上しました。

マテオ・リッチと徐光啓

中国文化を深く理解し、教養人でもあったマテオ・リッチは明の人々に受け入れられ、日増しに信者が増えていきました。マテオ・リッチに入門した中国人の中でもっとも有名な人物は徐光啓です。

徐光啓は明代の国家公務員試験である科挙に合格したエリート官僚でした。マテオ・リッチのうわさを聞き付けた徐光啓は彼のもとを訪れキリスト教に入信します。その後、中央官僚として出資しましたが、魏忠賢派の官僚と対立し失脚しました。魏忠賢の失脚後、徐光啓は政界に復活。内閣の一員にまで上り詰めました。

マテオ・リッチと徐光啓は『ユークリッド原本』を翻訳した『幾何原本』を出版し西洋科学を中国人にわかるよう努めました。また、のちに『農政全書』を著し、農業技術の向上にも寄与します。さらに、アダム・シャールと共同で『崇禎暦書』も著すなど、中国科学史に足跡を残しました。

イエズス会による布教の挫折(典礼問題)

マテオ・リッチは1610年に亡くなりました。死後、遺体は北京に葬られます。マテオ・リッチが切り開いた中国布教の道は、後進の修道士たちによって着実に整備されていきました。アダム・シャール、フェルビースト、ブーヴェ、カスティリオーネたちは着実に中国で信徒を増やします。

状況が大きく変化したのは清の康熙帝の時代でした。中国布教で後れを取っていたフランチェスコ会やドメニコ会は、イエズス会が中国で行っている相手国にあわせた布教(典礼)はキリスト教本来の形ではないとして教皇に訴えました。時の教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を禁じます。

清の康熙帝は、典礼を認めない修道士たちによる中国布教を禁止しました。さらに、次の雍正帝キリスト教の布教そのものを禁止してしまいます。こうして、マテオ・リッチの努力は水泡に帰してしまいました。

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