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幕末維新の立役者「小松帯刀」短い人生に偉大な足跡を残した幻の宰相の生涯を解説

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ちょっと雑学

日本で最初に新婚旅行をしたのは、坂本龍馬とお龍夫妻といわれています。帯刀が寺田屋事件で深い手傷をおった龍馬に療養の旅を進めたことによるものだとか。でも、帯刀と千賀も新婚当時に薩摩の温泉にいっています。でも実は、江戸の富裕層の間では、一般的に新婚旅行は珍しくなかったのです。江戸で人気の旅行先は箱根でした。

3. 薩摩藩内での勇姿

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叔父斉彬の死後第12代(最後)藩主となった忠義の父島津久光の側近となり、藩政改革や人材登用に尽力します。優秀な帯刀は、若くして家老に抜擢されました。若かりし頃の帯刀の人生はどんなものだったのでしょう。

3-1島津家家臣としての働き

領地治績により領民の信頼を得た帯刀は、派閥争いで追放になるも領民から慕われる家臣の家紋家禄を戻します。翌年の安政5(1858)年24歳の帯刀は、小松帯刀清廉と改名し藩からは火消し隊長を任ぜられました。しかし、藩主斉彬公が50歳で逝去します。南和泉院で斉彬の葬儀を、火消し隊長として立派に果たしました。

茂久(忠義)の命で当番役奏者番に任命され、国父久光の側近となり諸有志と交際するようになります。武芸の修業を始め、砲術や砲台構造の技術習得、蘭学者とも交友関係を作り知識を深めました。大久保利通や児玉雄一郎、海江田武次らとも親交を持ちます。

3-2若くして家老職を賜る

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北郷作左衛門と共に、電気や水雷の研究のため長崎へ遊学します。破裂弾水雷砲術の試験を、忠義公の前で成功させました。その他数々功績により、御改革方・御内用掛を命ぜられたのです。公武合体が叫ばれていた頃、久光に変わり上京し、近衛忠房に久光公上京の趣旨と九ヶ条の意見を陳述します。

これが天皇の耳に達し、京の浪士鎮静役を賜りました。久光公の意見は幕府にも認められ、薩摩は朝廷と幕府の信頼を得られたのです。そんな時、世界の強国が、植民地探しに躍起になっていました。後に薩英戦争の原因になる、薩摩藩士奈良原喜左衛門が英人を切った「生麦事件」が勃発したのです。

帯刀は久光が上洛するときにも随行し、帰国後の文久2(1862)1224日に家老を命じられ御側詰となりました。幕府や他藩との交渉役も担当します。薩摩藩の軍備や財政、教育など重要な役目を一手に担っていたのです。島津の実力者小松帯刀の名声は天下に広まり、「島津の小松か、小松の島津か」と帯刀をもてはやしたとか。

4. 幕末維新の立役者

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帯刀は家老に出世しても保守的にならず、仕える久光とは逆路線を歩む者たちを保護します。西郷隆盛や大久保利通など血気盛んな薩摩隼人が集う「誠忠組」と交流し、次第に薩長同盟の時には裏で動き幕末維新の陰の立役者となったのです。それでは、帯刀の幕末期の活躍ぶりを見てみましょう。

4-1薩英戦争

英国船が薩摩に危害を加えるとの情報を耳にし、帯刀と大久保が急遽鹿児島に帰郷します。京では長州藩急激派で尊王攘夷党の久坂玄瑞や寺島忠三郎などが運動を起こし、朝廷の攘夷派も過激になり政情が一変したのです。近衛卿に求められ帯刀ら700人が急いで白鳳丸で京に上るも、帯刀がお膳立てをした攘夷不可の久光の意見は却下されます。

更に生麦事件で英国が幕府に賠償金と当事者の首領の死刑を求めており、幕府から久光の首をと脅される始末でした。でも、御軍役掛の責任者だった帯刀は、薩摩と英国との交渉を認めさせ、薩英戦争の準備に取り掛かったのです。

交渉が決裂し帯刀は開戦を決意。薩摩の発砲により薩英戦争が勃発します。薩摩の砲弾による英国の被害は甚大で英艦は逃げ去りました。戦いは互角でしたが、砲台の壊滅と城下は火の海だったのです。でも、薩摩の戦死者は一人で負傷者は数人でした。外国を一藩で退却させたニュースはすぐに広まり、薩摩中心の薩長土連合の気運を呼び込みました。

英国の奇襲を想定し、富国強兵を実施。近代兵器や艦船などの強化をします。共に、英国との関係改善にも努め、奄美大島にオランダの製糖機械を購入し英人に運転させました。教育面では、英語やオランダ語の教師を雇います。岩下新之丞や竹下清右衛門を責任者とし、斉彬時代の集成館を再興。長崎から職人を招き、軍艦や商船の修理もしています。

4-2長州撤去派兵に参戦せず

帯刀は、8歳年上の西郷隆盛らにとっても、理解ある上司でした。他藩からも頼りにされ、長州の井上馨や伊藤博文らと交流します。英国商人のトーマス・グラバーや英国公使ハリー・パークスらとも親しい関係でした。

久光は帰郷するも帯刀は京に残り皇居の警備役を担ったのです。西郷隆盛や海江田武次なども京に留まり、非常時に備えて待機します。そんな時、徳川慶喜から呼び出され、長州兵退去の朝命により薩摩も兵をと打診されたのです。しかし、帯刀は、「一橋からの命では…。朝命が発せられたときには兵をだしましょう。」ときっぱり断ります。流石に、長州兵が禁門を犯さんとしたときには、西郷達に命じ長州浪士を追い払ったようですが…。

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