4-3朝幕の優秀な調整役
帰郷を久光から命じられるも、在京中の西郷を始め、朝廷や幕府からも帯刀の力は必要で重要な人物でした。蛤御門の変で帯刀は直接指示し、長州を討ち払うという功績を挙げ藩公からも感謝状を贈られます。加俸は、軍備などでの藩費の逼迫を理由に辞退しました。
長州征伐のとき帯刀は、西郷・大久保と大坂で軍議を開き久光の内治を経て、西郷を岩国藩に使わし降伏を勧めます。それに応じた長州藩に対する征伐全てを中止させました。しかし、幕府は14万の兵が集まったこともあり、閣老松平宗秀や阿部正外が兵を率いて上京します。京都守護、長州藩や五卿の処分、参勤交代制を復するなどを要求したため、帯刀と大久保は近衛卿に言上し中止させました。
5.晩年の帯刀
帯刀最大の功績は薩長同盟を締結させたこと。大政奉還に尽力し、明治維新後の新政府参与となり、廃藩置県などにも寄与しています。外国官副知事になるも、惜しまれつつ病死しました。それでは、帯刀の晩年をご紹介しましょう。
5-1長州との関わり
幕府は毛利親子を江戸に招致するも、長州は応じず兵器を購入に奔走します。この行動に幕府は討伐令を諸藩にだしますが、反対する藩が多く出兵に躊躇。この件は、幕府には大きな痛手で、権威を失墜したのです。長州の伊藤博文や井上馨は、軍艦武器を購入するため帯刀を頼ります。その時、井上を薩摩に伴い、大久保や伊地知、桂久武などと面会させ、薩長の接近を模索したのです。長州藩の武器や用船を薩摩の名で買うため、帯刀は英商のグラバーに相談します。
薩摩が長崎に亀山社中を作り、グラバー商会と銃器の取引を開始。土佐藩浪士上杉宗次郎は、薩摩名義の船「桜島丸」をグラバーから受け取り、土佐経由で長州に廻航しました。そんな時、第二次長州征伐を慶喜が企て、大坂に帯刀を招き再征に力を貸してほしいと頼むも、「御主意や名分がはっきりしない」と断ります。
龍馬の海援隊という貿易結社はご存知でしょう。帯刀を頼ってきた龍馬と土佐脱藩浪士たちが、薩摩の帯刀の別荘に逗留します。長崎で交易をして生計を立てることで話がまとまり、薩摩藩の援助を受け拠点としたのが海援隊の前身亀山社中でした。この海援隊生みの親が帯刀だったんです。
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5-2薩長同盟
幕府が地に落ちたと同時に龍馬が、禁門の変以来燻る薩摩と長州の仲立ちのため動きました。薩摩藩士黒田清隆が龍馬に、長州の木戸と薩摩の帯刀、大久保、西郷と、談合し薩長同盟を結ばせるよう依頼します。龍馬は帯刀の同意を得て、単身馬関で木戸、高杉と会談しました。その結果を京の帯刀に伝え、慶応2(1866)年1月21日に京都の小松邸で帯刀と西郷、長州の木戸との会見により、明治維新の2年前に「薩長同盟」が結ばれます。
この後で、帯刀は龍馬夫妻を伴い帰郷。寺田屋事件の傷を癒しながら、日本初といわれる新婚旅行を龍馬は楽しみました。お龍は龍馬と高千穂登山をし、絶景に感動したと伝わっています。
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ちょっと雑学
京都の小松邸は、薩長同盟、薩土盟約、勤王志士、勤王公卿などの密約を伴う重要な会議に使われました。この邸宅は、帯刀が明治2(1869)年に退官後に大久保利通に譲っています。
元々の持ち主は近衛卿で、お花畑屋敷と呼ばれる別邸でした。帯刀が朝廷と幕府の調整役として重要な存在になり、京で過ごす日が多く宿所として譲られ家紋も使ってよいと許されたようです。命を狙う輩がいても、近衛卿の家紋があれば襲えないとの利点がありました。
また、ここは側室となった祇園の名妓お琴さんとの出会いの場所です。本妻の千賀には子供はありませんが、お琴との間には後継ぎが生まれています。
5-3薩土盟約締結
帯刀の京の自宅で正月を迎え、慶応3(1867)年に諸掛はそのまま城代家老となります。2月には、伊地知や石川確太郎らと他藩にさきがけ、大坂に大和交易方を会社組織にし、大和交易コンペニーを設立しました。パリ万博では、独自の「薩摩パビリオン」を出店し世界に薩摩藩をアピールするという功績も上げています。帯刀の行動は、前藩主斉彬の遺志、薩摩の近代化を引き継いでいるといえるでしょう。
同年6月22日に小松邸には、土佐藩の中岡慎太郎と板垣退助がいました。ここで、西郷と共に武力倒幕論を聞かされたのです。26日には土佐は後藤象二郎と龍馬を加え、薩摩は帯刀、西郷、大久保らと6ヶ条からなる薩土盟約を結びました。ここから、倒幕運動は進展します。