幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末維新の立役者「小松帯刀」短い人生に偉大な足跡を残した幻の宰相の生涯を解説

5-4大政奉還大会議

大政奉還に際し、大会議が開かれました。幕府側は大反対するも、帯刀は賛成し慶喜も時局に着き仕方なしと応じました。10月13日に二条城で諸藩の重鎮たちを招集しますが、空気は重く誰も言葉を発せなかったのです。しかし、薩摩代表の帯刀は、「大政奉還は国家の急務、公明正大の行為で美徳である」と意見を述べて将軍の政権返上を認めさせています。

しかし、大政奉還を阻止しようという動きもありました。新選組や見廻り組です。彼らは、帯刀や龍馬、中岡、西郷、大久保らを暗殺しようと暗躍していました。そして、11月15日に、龍馬と中岡が近江屋で暗殺されます。実は、勤王党志士の中心人物だった帯刀は、格好の餌食だったのです。大会議の後で、後藤象二郎と居残り慶喜に大政奉還を迫ったため、奇跡的に助かったといわれています。

5-5明治維新後の帯刀

新政府では、参与総裁局の顧問と外国事務局の判事を兼務します。外国との手腕を買われ奮闘しました。英国の青年外交官アーネスト・サトーに、「家老の家柄だが、政治的才能はもちろん、人情もあり様々な点で傑出した人物」と賞賛されています。

江戸幕府のフランスからの借金を、大隈重信と共に英国から借りて返済し、土佐藩兵が堺でフランス艦員斬殺した「堺事件」などの交渉もしたようです。明治2(1869)年には、新政府の方針に基づく薩摩藩改革にもあたりました。残念ながら帯刀は、5月13日に病状回復が見込めないと官職を辞したのです。治療に専念するため、7月5日に大阪府医学校教師でオランダ人の「ボードウィン」の治療を受けます。

同年9月26日に永世賞典禄1000石を賜りました。翌年5月には天皇も帯刀の病状を心配し、肴や菓子を見舞いとして送っています。7月12日に病気が改善されしだい、東京に在住するよう命令されますが、20日に36歳という若さで逝去。大阪府天王寺村夕日ヶ丘に神葬されました。

小松帯刀なしには歴史に残る明治維新は果たせなかった!

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明治新政府が産声を上げて間もない、明治3年に逝去しました。近代日本にはまだまだ手入れが必要で、その後は西郷や大久保、木戸などによって運営されます。この三人は、明治維新の三傑として称賛されるも、小松帯刀は絶命により名を連ねることはできませんでした。優秀な人材で多くの功績を挙げたのに、残念でたまりません。

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