幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

外国通として活躍し維新の元勲に上り詰めた「井上馨」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

維新後の井上馨

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四境戦争後、長州藩は反撃に転じました。戊辰戦争で勝利した長州藩は新政府の中心となります。井上も、新政府の大蔵大輔や外務大臣として活躍しました。しかし、順風満帆だったわけではなく、尾去沢銅山の汚職事件や鹿鳴館外交の失敗など、手痛い失敗も経験します。政府の要職を歴任し、一度は総理大臣となるよう大命が下されましたが井上は拝辞しました。

大蔵大輔就任と尾去沢銅山汚職事件

王政復古の大号令によって新政府が成立すると、井上は長崎で長崎製鉄所御用掛として銃の製造などにかかわります。その後、人事異動で大阪に作られた造幣局のトップになりました。

明治維新後、井上は長州閥のリーダーである木戸孝允の引き立てで大蔵省に入ります。1871年、井上は大蔵省のナンバー2である大蔵大輔に昇進しました。

岩倉使節団が派遣されたとき、井上は洋行メンバーには留守政府の一員として国政に携わることになります。大蔵卿の大久保利通が外遊メンバーだったため、井上は巨大官庁である大蔵省のトップとして強い権限を持ちました。

1873年、かねてから予算などをめぐって不和だった江藤新平が井上を尾去沢銅山にかかわる汚職事件で告発します。尾去沢銅山を所有者から取り上げ、井上が私物化しようとしたと疑われた事件ですが、結局真相はわからずじまい。井上は事件の責任を取って大蔵大輔を辞任します。

欧化主義と鹿鳴館外交に象徴される井上外交

1874年、政敵の江藤新平が佐賀の乱で刑死すると、井上は伊藤博文の要請により政府に復帰します。復帰後の井上は、外交面で活躍することが多くなりました。1875年の江華島事件や1876年に日朝修好条規の締結では使節団の副使として事態収拾にあたります。

明治日本にとって重要な外交テーマは幕末に結んだ不平等条約の改正でした。諸外国は日本の制度が整備されていないことなどを理由に改正交渉に消極的です。井上は、ヨーロッパの文化を取り入れ、欧米に日本が国際法の対象となる文明国だとアピールしようとしたのでしょう(欧化主義)。

欧化主義を象徴する建物が鹿鳴館です。鹿鳴館は1883年に建てられた洋館で、国賓や外交官を接待する施設として利用されました。井上は自らホスト役となって連日、舞踏会などを催します。

しかし、ノルマントン号事件をめぐる対応などが批判され、条約改正を果たすことなく外務卿を辞任しました。

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