幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

外国通として活躍し維新の元勲に上り詰めた「井上馨」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

人事がうまくいかず、大命降下を拝辞

1900年、伊藤博文は議会の円滑な運営のため、立憲政友会を設立。自ら総裁となりました。1900年10月19日、伊藤博文は四度目の内閣を組閣します。しかし、山県有朋をはじめとする陸軍・貴族院勢力の抵抗などにより、第四次伊藤内閣は短命に終わりました。

1901年、明治天皇は井上に組閣の大命を下します。井上はすぐに内閣の人選を始めました。ところが、重要閣僚である大蔵大臣の人選で躓いてしまいます。渋沢栄一が大蔵大臣就任を辞退したからでした。

もともと、井上は立憲政友会や官僚勢力を基盤とする伊藤博文や陸軍や貴族院勢力を動かす山県有朋などに比べると政治的基盤がありません。そのため、組閣人事で躓くと、ただでさえ低い求心力がより低下してしまいます。井上は組閣をあきらめ、大命降下を拝辞しました。

総理になれそうでなれなかった井上のその後

image by PIXTA / 10065138

井上馨は明治維新で活躍した「維新の元勲」です。にもかかわらず、総理大臣の座に縁がなかったのは財政・外交の両面で、決定的な成功をできなかったからかもしれません。大日本帝国憲法制定後、「維新の元勲」たちは「元老」(政界最長老)となります。元老は内閣総理大臣の推薦など、政治に大きな影響力を持ちました。井上も元老の一員として国政に携わり続け、1915年に亡くなります。79歳でした。

1 2 3 4
Share: