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日本を南北分断の危機から救った「占守島の戦い」とは?歴史系ライターが解説

占守島の戦い

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Victor Morozov – photo by victor morozov, CC 表示 2.5, リンクによる

満州がソ連の大軍によって席巻されていた頃、北海道の北に位置する南樺太(サハリン島)及び千島列島の最北端に位置する占守島にも危機が近づいていました。日本軍部隊はどのように占守島を守ろうとしたのか?詳しく見ていきましょう。

戦力が充実していた占守島守備隊

日本の第5方面軍司令官樋口中将は、対米戦を想定して占守島と幌筵島に第91師団23,000余りの兵力を配備していました。戦争中といえど戦闘が皆無だった地域のため、弾薬や食糧の備蓄は豊富にあり、満州から戦車60輛とともに戦車第11連隊が移動していました。

また占守島の防衛が基本方針だったために、島の各地が要塞化されていました。これには占守島が置かれた地理的条件が関係しています。

アラスカからアリューシャン列島を経て、千島列島から北海道へ至る北方航路は、アメリカと日本本土をつなぐ最短ルートでした。それゆえこの方面は、ソ連とアメリカ双方の動きを監視すべき地域にあり、すでに日本は昭和15年の時点で北千島要塞の建設に着手し、本格的な軍備を整え始めたのです。

ちなみに昭和20年8月の段階では、占守島に第73旅団、第11戦車連隊を軸として8,500の兵力が駐屯していました。特に敵の上陸が想定される海岸付近には、陣地群が構築され、各所に塹壕が掘られました。

8月9日、満州にソ連軍が侵攻した日に、樋口中将は麾下部隊に訓示を発しています。

 

「固ヨリ豫期スル所ナリト雖モ正ニ未曾有ノ大事ト謂フベシ…(中略)他ノ支援ヲ思ハズ飽ク迄自己ノ全力ヲ傾倒シテ最大ノ戰力ヲ発揮シ断固仇敵ヲ殲滅シ以テ宸襟ヲ安ンジ奉ランコトヲ期スベシ」

引用元 田熊利三郎「第五方面軍作戦概史」(防衛省防衛研究所所蔵)より

 

敵がやって来ることは、かねてより予期していたといっても、まさに未曽有の大事だと思うこと。また、他からの援護を期待することなく、各人が全力を傾倒して立ち向かい、敵を殲滅して天皇陛下の御心を安んずるように。このような主旨で、断固交戦する構えを崩さないようにと訓示を下達したのです。

8月11日、ソ連軍が南樺太へ進攻を開始し、激しい戦いが繰り広げられました。しかし占守島の目と鼻の先にあるカムチャツカ半島所在のソ連軍部隊は、鳴りをひそめたままでした。

ついにソ連軍が上陸!

8月15日に日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏の意思表示をしても戦闘が止むことはありませんでした。なぜならソ連にとって停戦など受け入れようがなく、日本が無条件降伏文書に調印するまで、できる限り日本の領土を掠め取ろうとしたからです。ソ連にとって日本が調印するまでが戦争だという認識があったのでした。

占守島所在の日本軍部隊も、上級司令部からの命令で武装解除を行いつつあった8月15日、ソ連第2極東方面軍司令官プルカエフ大将は、カムチャツカ防衛区司令官グネチコ少将に作戦命令を示達しました。

「日本の降伏が予想されるため、この好機を利用して、シュムシュ(占守島)、パラムシル(幌筵島)・オネコタン(温禰古丹島)各島を占領する必要性がある。」

日本が無条件降伏を受け入れて武装解除した以上は、彼らは簡単に降伏するだろう。という認識に基づくものでした。18日に占守島を占領し、19日には幌筵島を占拠するというタイムスケジュールまで組まれていたのです。

もちろん、ソ連軍は戦争を早期終結させるために攻め込むわけではなく、あくまで太平洋への重要な入口を確保することが目的でした。

ソ連軍部隊はさほど多くなく、占守島侵攻時は約9,000ほど。しかし終戦直後の日本軍はすぐさま手を挙げるはずだという観測に基づいていましたし、日本側の戦力を侮っていた部分もあったことでしょう。

8月17日、ソ連軍上陸部隊を載せた艦隊が出港し、上陸地点への移動を開始しました。しかし艦隊といっても旧式の機雷敷設艦や警備艇などが数隻、対岸のカムチャツカ半島にあるロパトカ岬からの火力支援に頼るのみでした。

翌18日未明、ついにソ連軍は占守島の竹田浜に上陸を開始したのです。

日本軍の反撃

ソ連軍が作戦命令を示達していた頃、占守島の日本軍にも終戦の「玉音放送」は流れていました。日本本土の大本営は「即時戦闘行動停止等ニ関スル命令」を各地の日本軍部隊に下したため、幌筵島の第91師団長堤中将は各部隊の指揮官たちを集めます。

ここで堤中将は、「8月18日16時をもって停戦とされたこと。」「やむを得ない場合の自衛戦闘は認められていること。」「軽挙妄動は慎むこと。」「敵の軍使が来た場合は師団司令部に連絡すること。」などを確認しました。

しかしその後、17日夜半の段階で「ソ連軍上陸の場合は断固迎撃」というふうに司令部の方針が転換されていたように思えますね。なぜなら上陸企図を持つソ連軍は、日本軍に対して何の警告も連絡もしてこず、事前砲撃を開始したということは、戦う意思が明確であるといった理由が考えられたからです。こうして「自衛のための戦闘」の準備が進められました。

そして18日未明、竹田浜に上陸を開始したソ連軍でしたが、岸に接岸できない船舶ばかりだったため水深2メートルのあたりで停止。ソ連軍兵士たちは泳いで浜へ上がらねばなりませんでした。しかも待ち構えていたのは第91師団の中でも精鋭を謳われた歩兵第282大隊だったのです。

水際陣地からの攻撃は激烈で、日本軍兵士たちは大量の弾薬を持っていたうえ、惜しむことなく砲火を浴びせ掛けました。ソ連軍が何とか上陸を果たしても、島のいたるところに造られたトーチカがソ連軍の行動を阻んだのです。ほとんど前進することもできないまま、いたずらに損害が増えるだけでした。

この日の戦闘だけでソ連軍の損害は、戦死516名、負傷716名、不明325名に及び、ほぼ壊滅に近い打撃を受けてしまいます。

ソ連側は第2梯団が上陸してきたおかげで何とか持ちこたえますが、状況的には日本側が有利でした。

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明石則実