思わぬ痛手~戦車部隊の壊滅~
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日本軍守備隊は、あらかじめ米軍の上陸を想定していたため、持久抵抗を続けるべく島の各所に防御陣地を構築していました。さらに60輛の戦車を保有する第11戦車連隊も健在で、砲兵部隊を陸揚げできなかったソ連軍より優勢でした。
そこで堤中将は、第11戦車連隊長池田大佐と第73旅団長杉野少将に対して、上陸地点で前進できないソ連軍を撃滅するよう命令を下します。
勇躍、池田大佐は配下の将校たちに訓示を行ったとされていますね。
「状況くだんの如し。諸君は大事の際に隠忍自重した赤穂四十七士足らんと欲するか?それとも祖国防衛のために戦った白虎隊足らんとするか?」
将校全員は即座に「白虎隊!」と一斉に答えたそうです。それを聞いた池田大佐は、「今や連隊長として下すべき命令もない。ただ一途に御勅諭を奉唱しつつ敵中に突入せよ!いざ我に続け!」とばかりに自分の戦車に乗り込みました。
主戦場となった165高地を目指して突き進んでいった戦車隊ですが、ここに思わぬ敵が待ち構えていました。それはソ連軍が大量に装備していた対戦車ライフルでした。重厚なドイツ戦車すら貫通させるほどの威力に対して、装甲の薄い97式戦車では簡単に撃破されてしまいます。次々に味方戦車が燃え上がり、池田大佐はじめ多くの戦死者を出した戦車第11連隊は壊滅してしまいました。
せっかく虎の子の戦車隊を擁しながら、日本軍は大事なアドバンテージを失ってしまったのです。
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停戦協定へ
日ソ両軍の間で激しい戦いが繰り広げられた占守島。しかし日本国がすでに無条件降伏している以上は、停戦の落としどころを探さねばなりません。ギリギリの駆け引きの中、停戦交渉へ向けての動きが始まります。
突如として戦闘をやめた日本軍
第91師団は何とかソ連軍を海へ追い落とそうと死に物狂いで攻勢を繰り広げました。幌筵島から占守島へ増援部隊が続々と到着し、戦闘がたけなわの頃、ついに北海道の第5方面軍からの命令が届きます。
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」
18日16時の停戦時刻、突如として戦闘を止めた日本軍に対し、その事実をあずかり知らぬソ連軍は積極的に攻勢をかけ、重要地点を次々に制圧していきました。そして正面約4キロ、奥行6キロの橋頭保が築かれたのです。
この時のことを、方面軍司令官樋口中将は後年回想しています。
この戦いは見事であった。今一歩にて敵を水際に圧迫し、小ダンケルクを顕はしたのであった。処が大本営からは、この日「十六時」をもって「停戦の完全徹底時刻」と定められて居た。これが悲しき原因をなし、日本軍最後の戦史が、不徹底の「戦勝」を以て終止符が打たれ、勝者が敗者に武装解除されたことは、なんとも残念千万であった。
引用元 「故樋口季一郎遺稿集」より
圧倒的不利となっていたソ連軍にとって、この突如として戦闘を中断した日本軍の動きは不可解だったことでしょう。
停戦交渉
18日16時を期して戦闘の続行を断念した日本側は、同日夜に停戦交渉のための軍使を派遣します。しかし散発的な戦闘はまだ続いており、最前線を抜けてソ連軍司令部に辿り着くことができませんでした。
軍使が戻ってこないため、日本側司令部は致し方なく第二次軍使を派遣。幸いにも前線を通過してソ連軍司令部へ到着することができ、19日15時より停戦交渉が行われることになりました。
そして第73旅団長杉野少将と、第91師団参謀長柳岡大佐が交渉に当たることになったのです。ソ連側の要求は、「停戦ではなく、あくまで武装解除のうえ無条件降伏」であることでした。これに不満を持った堤中将は、「停戦はするが、武装解除はしない。」と再度、杉野少将と柳岡大佐を派遣し、再交渉に当たらせました。
ところが交渉真っ最中の20日朝、幌筵海峡に向かっていたソ連艦隊を、日本軍守備隊が砲撃するという事件が起こります。「日本側は停戦交渉を蹴って反撃しようとしている。」と判断したソ連側は、態度を硬化させる結果となりました。
しかし、占守島以外の戦域での停戦交渉は次第にまとまりつつあり、ソ連軍司令官グネチコ少将は、軍使を送って堤師団長に要求書を手渡しました。
「貴官の部下、柳岡大佐が署名した停戦協定を、貴官は守っていない。8月20日、貴官の軍は我が艦隊を砲撃してきた。我が艦隊は戦闘を予定していなかったのにもかかわらず。これは占守島に駐屯している日本軍兵士が抵抗を続けるという意思表示とみなすことになる。私も北クリル諸島(千島列島)を占領しなくてはならないという命令を受けている。しかるに無駄な流血を防ぐために再度、降伏の命令を出すように提案する。」
こうしたソ連軍司令官の態度に、堤中将も腹を決めます。「日本側は戦闘を中止する。武装解除して投降する」と。
そして第5方面軍は21日に「即刻無条件戦闘停止」を第91師団に打電し、占守島での戦闘がここに集結したのです。
戦闘の終結、そしてシベリアへ
8月21日に戦闘が事実上終結して日本軍は降伏。24日には武装解除が完了しました。双方の損害は、日本側が800、ソ連側が2,300を数えました。とても降伏を余儀なくされた敗軍とは思えない健闘ぶりだったのです。
「我々は決してソ連に敗れたのではない。天皇陛下の命に従って戦いをやめ、武器を引き渡すに過ぎない。」兵士たちの胸に、そんな思いが去来していたことでしょう。
第5方面軍が上級司令部に対して「地方民ノ生命財産ハ危害ヲ加ヘザル如ク保證シアリ日魯漁業会社ノ關係者ハ目下安全ナリ」と報告したように、占守島にいた多くの民間人たちの生命や財産も保護されました。同時期に南樺太がソ連軍の襲撃を受け、4,000人を超す民間人の死者を出したことに比べれば、大きな違いがあったといえるでしょう。
降伏した日本軍兵士たちは、帰国することも許されずにそのまま留め置かれ、10月になるとシベリアへ移送されていきました。そして酷寒の地で「シベリア抑留」という新たな苦難に立ち向かうことになるのです。
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南北分断を免れた日本
占守島・幌筵島の日本軍は結果的に降伏したわけですが、その善戦ぶりこそがソ連の野望を断念させたといえるでしょう。
なぜなら、8月9日に対日参戦を果たしたソ連は、南樺太~千島列島を経由して北海道へ上陸し、あわよくば東北地方までソ連の管轄地にする計画でした。まるで火事場泥棒のように既成事実を作り上げ、日本を政治的に分断することが目的だったことでしょう。もしそうなっていれば、東西ドイツや朝鮮半島のように分断国家になっていた恐れがあったのです。
しかし、占守島の戦闘で日本軍は頑強に戦い、その精強ぶりを見せつけました。ソ連側からすれば、「なぜあんな北辺の島に、日本軍の精鋭がいるのだ?」と訝し気に思ったことでしょう。まして終戦の詔が下されて、あっさり武器を捨てて降伏すると考えていたのに、激しい抵抗に遭うとは考えてもいませんでした。
もし北海道へ上陸したところで、それ以上の激しい抵抗に遭えばソ連側もただでは済みません。また降伏を受け入れたにもかかわらず、ソ連の侵攻を受ける日本への国際的同情が増すことでしょう。何よりアメリカがソ連の跳梁を望まなかったからです。
結果的に、占守島での果敢な抵抗がスターリンが望んだ北海道占領を諦めさせ、日本を分断したうえで共産主義国化するというもくろみを打ち砕いたのですね。