『戦争と平和』の著者「トルストイ」ってどんな人?ロシア人文豪の人生を解説
1.強面なイメージのトルストイは貴族生まれ
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トルストイが生きた時代は、ツァーリズムの動揺により、時代が大きく変化したころです。ロシア帝国の絶対王政が揺るぎ、戦争や反乱も頻発しました。ロシアの名門貴族の伯爵家に生まれるも、幼いころに両親を亡くしています。中身を伴わない教育しかできない大学に失望し中退した後は、放蕩や道楽を繰り返し、自ら志望し戦争にも参加したのです。その後はロシア文学の黄金時代をフョードル・ドストエフスキーと共に築き、数々の名作を生みだしました。そんな「トルストイ」の生い立ちを見てみましょう。
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1-1貴族家庭に生まれるも…
トルストイの写真を見た方は、生真面目で難しい頑固爺さん的なイメージを抱いておられるでしょう。実は、彼は自然を愛する非暴力主義者としても有名です。ロシアの文学を躍進させた文豪「トルストイ」は、1828年9月9日にモスクワから165km南に位置する、トゥーラ郊外のヤースナヤ・ポリャーナで、豊かな自然に見守られながら裕福な家庭に誕生します。歴代皇帝に仕える伯爵家の四男で、本名は「レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ」です。
幼いころに「泣き虫リョーヴォ」というあだ名をつけられ、揶揄われては拗ねていたとか。幼いころから感傷的で敏感な感性を持っており、この性格が彼を作家としての成功に導いたことは間違いないでしょう。晩年の難しい顔をしたイメージからは、想像も付かない幼少期だったようです。
1-2度重なる親族の死
彼が1歳半のときに亡くなった母の記憶は全くなかったようで、どこか物悲しい雰囲気はこのことが起因しているようです。でも、悲しいことや誘惑、非現実的なことに直面したときは、いつも母に祈り助けを求めていたとか。
彼は家に訪れる客たちの、「目に留まり、そして愛される」ことを欲したとか。客間の正面扉から突然登場し、注目を集めてその様子を楽しんでいたようです。少年期は勉強が得意ではなかったようで、家庭教師のポリンスキーには、「レフは意欲もなければ、才能もない」というレッテルを貼られています。勉強嫌いで文才は全くなかったようですが、読書は大好きだったようです。デュマ・フィスやポール・デ・コカを愛読し、アレクサンドル・デュマ・ペール著の『モンテ・クリスト伯』やミステリーも好んで読んでいます。
1837年の9歳のときに父の仕事により、かつて首都だったモスクワへと引っ越しました。転居から6ヶ月後の6月には父もなくしました。その後は、祖母に引き取られ育てられますが、翌年に他界します。父の妹に引き取られるも彼女も亡くなり、1841年にカザンに住む叔母に引き取られました。
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ちょっと雑学
祖母と過ごしていたころにトルストイの心の中に、「人間は死へ向かって生きている。なのにどうして、将来を懸念しくよくよ悩むのだろう。」という思いが湧いたとか。彼自身は、今の時間を楽しめばいいとの思いに達し、勉強嫌いの性格から、授業を放棄し部屋に閉じこもって、大好きなプリャーニク(トウーラ地方の絵や図版を刻印した焼き菓子)に、極上の蜂蜜をたっぷり塗って食べながら、小説を読み漁り3日間も過ごしたようです。
プリャーニクというお菓子は、トウーラに博物館があるほど代表的な伝統菓子です。もし、ロシアでトルストイの足跡をたどる旅にいくなら、ついでに訪れてみてはいかがでしょう。プリャーニクは、郷愁をそそるほっこりと甘さの素朴なお菓子とか。
2.思春期のトルストイ
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悲しい死と転居を繰り返すトルストイは、兄のニコライの影響を受け思想哲学書をたくさん読んでいました。読む速度はとても早く、流行した作品を全て読み、登場人物に自分を重ね空想の世界に浸っていたようです。このような環境が、トルストイをロシアの巨匠と成長させたのでしょう。思春期のトルストイを淡々と追ってみましょう。
2-1大学で挫折するトルストイ
1844年にカザン大学東洋学科に入るも、舞踏会などの社交界に入り華やかな学生時代を送ります。翌年には、法学部に転籍するも、先ほどお話しした通り、授業内容の簡易さから嫌気がさし1847年に中退したようです(他説には遊ぶことに一生懸命になり成績が振るわず辞めたとも)。
大学在籍中に、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの『告白』や『エミール』、『新エロイーズ』を読み、感銘を受けました。ルソーの洗礼を若くして受けており、現在では思想的継承者と呼ばれています。
大学中退後は広大な土地を相続し、500人もの農民たちを使う農地経営を始め彼らの暮らしの改善を模索したのです。しかし、農民たちには富豪の気まぐれによる破天荒な考え方としか見えず挫折。しばらくモスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ります。
ちょっと雑学
トルストイは、物語に出ていたカッコいい貴族に憧れ、眉を濃くするため眉を摘んでしまおうと思ったとか。その思いが強すぎたのか間違ってか、全てを切り落としてしまったという、思い込みの激しい性格に対する逸話が残っています。