『戦争と平和』の著者「トルストイ」ってどんな人?ロシア人文豪の人生を解説
2-2戦争へ参加するトルストイ
放蕩生活を送る1850年に、初めて小説を執筆しています。しかし、1851年にコーカサス戦争へ志願し、コーカサスの砲兵旅団に編入されました。1852年の24歳のときに自伝三部作のひとつ『幼年時代』を執筆し、ネクラーソフの編集する雑誌『現代人』に掲載されます。このときに新進作家として注目を浴びたようです。後に、『少年時代』と『青年時代』も発表され、この三部作により作家としての地位を確立しました。
また、1853年のクリミア戦争では、将校として従軍しセヴァストポリで命がけの激戦を体験します。このセヴァストポリでの体験は、彼の非暴力主義の基礎となり、1855年の『セヴァストポリ物語』に書かれました。2つの戦争体験が彼の大作となった『戦争と平和』の中に活かされています。
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ちょっと雑学
『青年時代』の中には、恋愛に対する考え方が多く書かれていますので、一節をご紹介しましょう。「想像の中で夢見ては思い描く女性像。常にひとときも絶え間なくどこかで出会いを期待してやまない仮装女性への愛。…僕は全ての人々が僕を知っていてそして愛してくれることを望んでいた…。」と書いています。
ヴァーレンという女性との関係の中で、「自然を好きか?」と問われたとき、トルストイは彼女の気分を害する独創的な言葉をいい満足したとか。質問への回答は、「自然なんて、無駄な、何の益にもならないものだと思う」だったとか。このころから既に偏屈だったようです。
2-3退役後のトルストイ
退役後は、ペテルブルクの文壇に迎えられます。その中には、『初恋』などで知られる、イワン・ツルゲーネフもいました。その後は、1857年には教育に関するヨーロッパ視察旅行に訪れますが、パリ滞在中に目にした公開処刑に、ショックを受け物質文明に失望しています。1859年には、強制を排し、自主性を重んじた教育方針を柱とする学校を自身の領地内に設立しました。
1861年の29歳のころには奴隷解放令に先駆けて、農奴を自由の身にすることを試みますが今回も失敗に終わります。この失敗経験を活かし、領地の農民らに対する教育問題に情熱を注ぎました。その後、奴隷解放令が発令されると、農事調停官に任命されたのです。農民と地主の折衝に寄与するも、地主たちから反発され残念なことに辞職しました。このことで彼は官憲から危険人物と目され妨害を受け、学校を閉鎖しています。でも、教育への情熱を損なうことはありませんでした。
3.結婚後のトルストイ
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トルストイの結婚は、晩年はさておき幸せなものだったとか。充実した生活の中で、長編大作を次々と発表しロシアを代表する名作が次々と誕生しました。また、教育への情熱も残っており、文部省に認可される、教科書の執筆や編集も行っています。それでは、トルストイの結婚後の人生を見てみましょう。
3-1トルストイとソフィアの結婚
結婚直前のトルストイは、「幸福とはこのこと…他の人のために生きることだ」と語っていたようです。そんな34歳のトルストイは、1862年9月20日にモスクワの宮廷医ベルスの娘で18歳のソフィアと結婚します。結婚生活は幸せなもので、9男3女を授かりました。流石に婚礼の日はマリッジブルーに陥ったようで、恐怖と、不信感と逃走願望が芽生えていたようです。
いざ結婚生活を始めてみると、ずっと書き続けていた日記を約1年書かないほど充実し満足のいくものだったとか。「二人にとっては大切な1年で、関係は堅固で確実なものとなり、愛し合っている。この世の誰よりも尊重し合える間柄になった。」と、後の日記に記しています。でも、トルストイは、母となったソフィアについての記録をつけていたようです。ちょっと気持ち悪い…。
3-2文筆活動に専念す
結婚後1年の歳月が過ぎ、生活が安定したころから文筆活動を始めます。このころに、トルストイの二大名作とされる『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』を完成させました。しかし、『アンナ・カレーニナ』が最終局面に向かったころから、トルストイの心が変化します。
私は何故生きているのか?生きている理由は何なのか?他の存在が生存する目的は?…と、人生の無意味さという感情に打ちひしがれ、自殺願望が芽生えたのです。この事態を回避してくれたのが、神の存在で、このことから書かれたのが『懺悔』でした。素朴な生き方に目覚め『イワンのばか』などの民謡なども書きました。この作品では、悪に対する無抵抗思想を説いたことで評価されています。