中国の歴史

中国清王朝の衰退を決定付けた「アロー戦争」とは?わかりやすく解説

日本も黒船に開港を迫られ、不平等な通商条約を結ぶ

清国がイギリスに敗れたことは、東アジアの国々にも驚きを持って伝えられ、日本に現れたアメリカのペリー提督の黒船来航によって、江戸幕府は日米和親条約を締結せざるを得なくなり、さらに領事のハリスの強引な要求によって不平等な日米修好通商条約を結ぶに至ったのです。

アロー戦争の関係国と戦争の結果

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アロー戦争は1856年から1860年まで約4年間の中国の清王朝と英仏連合軍の戦争でした。英仏連合にはロシアやアメリカも参加していたようです。アメリカはこの時期は南北戦争が起こっており、積極的には参加しておらず、ロシアも様子見姿勢で、やはり中心はイギリス、フランスでした。当時、中国人によってイギリス船籍のアロー号が外交人排斥跡運動にあったことがきっかけになったことからアロー戦争と呼ばれているのです。一部では第二アヘン戦争とも呼ばれています。アヘン戦争以降も清王朝は鎖国を放棄していなかったことや当時の中国人に西欧人に対する排斥姿勢があったことが背景にあったからです。

太平天国の乱の鎮圧にイギリス、フランスが乗り出す

そして、中国国内の太平天国の乱を鎮圧できない清王朝は、イギリス、フランスに乱の鎮圧を依存せざるを得なくなり、清国の衰退を西欧諸国に見せるとともに、アジアの国々もその現実を認識し、ベトナムなどはフランスの植民地化に拍車がかかったといえます。

アロー戦争敗北でも中国の清王朝は目覚めなかった

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中国の清王朝は北京まで攻め込まれ、ようやく一部の役人や皇帝が清王朝の体制を変え、西洋の進んだ文化、仕組みの導入の必要性を認めます。しかし、実際には王朝を牛耳る科挙の試験によって登用された官僚たちと西太后に行く手を阻まれてしまいます

洋務運動の頓挫と変法運動の挫折

最初は、李鴻章などの高級官僚たちも賛成して洋務運動をおこないます。しかし、肝心の官僚たちの役割は変わらず、西洋の機械、兵器などを輸入するだけで、それらを活かす人の教育はおこなわれなかったため、運動は頓挫してしまいました。

それを反省して皇帝自らも先頭に立っておこなわれた康有為らによる変法運動は、保守的な官僚の強い抵抗にあいます。最終的には保守派の後ろにいた西太后が皇帝を幽閉する事態になり、清王朝の近代化は進みませんでした。

そのため、清王朝に見切りをつけた孫文のような革命派が生まれるようになったのです。

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