中国の歴史

中国清王朝の衰退を決定付けた「アロー戦争」とは?わかりやすく解説

北清事変によって清王朝も目覚めたが遅かった

そのような状況のなかで起こったのが、外交人から中国人の国を取り戻そうという義和団の乱でした。この騒動は、「扶清滅洋」を掲げる宗教団体の義和団が起こした事件です。清王朝はそれを利用して北京の外国公館を撤退させようと画策して、さらに北清事変に及んだため、ロシア、日本などの外国軍が鎮圧することになりました。そのため、さすがに保守派の西太后も清王朝の近代化に取り組み、科挙制度の廃止などをおこないましたが、時すでに遅く、1910年に辛亥革命によって清国は崩壊しました。

アロー戦争とは中国にとって何だったのか

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アヘン戦争からアロー戦争にかけて中国の清王朝は、先進技術と近代文明を持った西洋列強に負けてしまいますが、それでの清王朝の旧来の体制は崩れませんでした。それは、科挙制度に基づく官僚制度が清王朝政府の骨格をなし、多くの利権に守られていたため、国内の仕組みは変えられなかったといえます。アロー戦争は、清王朝の体制がすでに時代遅れになっていることを思い知らされることになりましたが、結局、その体制を変えることはできず、清王朝は滅亡することになったのです。

アロー戦争でも目覚めなかった清王朝の官僚組織は今の日本にも通じる

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アロー戦争は、時代に合わなくなった組織のもろさを天下に示した戦争でした。しかし、現代の日本も官僚天下といわれるように利権に基づく組織ができてしまっており、国民が死に絶えても官僚は生き残れるという神話が支配しています。このままだと、今回の新型コロナウイルスの騒動などでわかるように対応が効かない事態になってしまいかねません。私たち、国民が意識してこの国の仕組みを変えていこうとしない限り、変えることはできないのです。

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