アロー戦争の原因はアヘン戦争にあった
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なぜ、清王朝はこのように弱体化して、アヘン戦争、アロー戦争と連続して負けてしまったのでしょう。その背景について見てみます。
清王朝は、17世紀から18世紀中盤までの康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようぜいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)の三皇帝の時代に最盛期を迎えました。中国の時代劇ドラマなどでもよく描かれていますね。
北方のロシアと国境をめぐって戦争を起こして国境を確定させたり、台湾、中央アジアなどにも版図を拡大していました。したがって、17世紀には世界有数の帝国の一つといえたのです。
清王朝の衰退の原因は科挙制度にあった
しかし、その後は科挙の試験に合格した戦争も経験していない官僚たちが割拠することになり、組織面、軍事力において弱体化が始まりました。
また、前王朝の明王朝の時代から鎖国をおこなっていましたが、海岸線が長い太平洋岸では厳しい取締りはできませんでした。そのため、アジアの植民地化に積極的なイギリスなどは南部の杭州、広州などの承認たちと私的な貿易をおこなっていたのです。
しかし、清王朝の宰相になった林則徐がこれらの私的貿易を本格的に取り締まります。そこで、イギリスは貿易構造を、それまでの中国への綿製品の輸出と陶器、絹製品の輸入という二国間貿易から、インドのアヘンを中国に売るという三角貿易に切り替えたのです。そのため、中国の銀が大量に国外に流出することになってしまい、一方清国内の町にはアヘン中毒社があふれかえることになります。そのため、アヘン貿易を取り締まろうとする清王朝とイギリスは対立するようになり、ついにアヘン戦争に突入したのです。
アヘン戦争の結果とそれを守らなかった清王朝
アヘン戦争であっさりとイギリスの軍門に下った清王朝は、南京条約などで広州などの開港をさせられ、香港も割譲させられました。しかし、清王朝は積極的に開国をしようとせず、中国国内では外国人排斥姿勢が強まっていたのです。そのため、貿易は以前と同様中国南部の沿岸地域に限られ、イギリスは不満を持っていました。北京に領事を置くことさえも認められていなかったからです。
一方で、中国人のイギリス憎しの感情は高まり、各地で欧米人排斥運動が高まり、何度も事件が起こっていました。
アロー戦争のきっかけとその結果
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そのような厳しい状況のなかで、1856年10月に起こったのがアロー号事件でした。清国政府の官憲が、イギリス船籍のアロー号に乗っていた中国人船員12名を拘束し、一部を海賊容疑で逮捕したのです。しかも、その際に船に掲げられていたイギリス国旗を引きずり下ろしたといわれ、イギリス領事は強く抗議をしました。中国とイギリスの交渉はもの別れに終わり、イギリス海軍は、攻撃を開始して広州付近の砲台を占領し、アロー戦争が開戦したのです。これを受けて、1857年にはイギリス、フランス、アメリカ、ロシアは連名で清王朝に対して条約の改定交渉を行ないますが、清王朝はそれを拒否します。そこで、連合軍は天津を総攻撃して制圧してしまいました。これにより、清王朝も折れて、公使の北京在住、キリスト教布教の承認、英仏への賠償金の支払いなどを認めたのです。これは天津条約と言われています。
天津条約を守らなかった清王朝とその結末
しかし、アヘン戦争後の南京条約のときと同様、清王朝は連合軍が去ると天津条約の内容を変更しようという動きを見せたのです。さらに、1859年6月に条約の批准のために天津にきた英仏艦隊に対して河口に障害物を置き、砲撃をおこなったため、艦隊は引き上げざるを得なくなります。
そこで、英仏連合軍は再び大艦隊を派遣し、再度清軍の砲台を占領して交渉にあたったのです。最初、交渉は難航し、清軍の反撃があったため、怒って連合軍は北上して北京に迫ったことから清国皇帝は狼狽して、都を放棄して避難する事態になります。そしてフランス軍は清王朝の宮廷庭園である円明園において略奪行為をおこなったのです。そのため、ロシア公使が調停に入り、結局北京条約が結ばれるに至りました。内容的には、天津条約に完全履行と賠償金の上積みです。そして、英仏軍は、清国軍に代わって太平天国の乱を圧倒的な火力の武器で鎮圧したのでした。
アヘン戦争とその結果が太平天国の乱とアロー戦争をもたらす
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結果的には、アヘンの貿易が認められるなどアヘン戦争に敗れた中国国内に大きな不満が溜まり、同時に清王朝の力が衰え、国内を制御できず、アロー戦争につながったのです。しかも、清王朝は条約を結んでおきながら、あとでそれをかってに変えようとするなど、国際常識に欠けた外交をおこなっていたことが原因といえるでしょう。