けっこうゆるかった?秀吉の刀狩り
今までの感覚では、無理矢理に刀を家宅捜索して取り上げていったというような想像をしていたのですが、意外とそうでもないことが出てきましたよ。歴史の授業などで聞く「自分のような身分が低い者が下克上で出てこないためにした」などというのはかなり違いますよね。
当時は身分制度というものがなくて、農民が反乱しているのか、武将が反乱しているのかがわかりにくいところもあったので、農民たちから武器を取り上げたら区別がつくという考えもあったようですね。実際のところ村からは武器が全部なくなるということはなかったようですよ(けっこう大量とも)。
なぜならば農作物を食べに来る害獣を駆除するためには弓矢や鉄砲は必要ですし、祭祀とかに使われる武具などもありますから、とりあえず1人あたり大小一揃えは取り上げて、他は調べたら返すみたいなことも多かったようですね。問題となっていた村同士の武器を持っての喧嘩は「喧嘩禁止令」が出されてからはおさまったようですし。大名達ですら勝手に戦争をするのは禁止で、国内は平和になったわけですね。
江戸時代の刀狩り
江戸幕府の最初は、豊臣秀吉の農民の日常帯刀は認めないという原則はそのまま継続されたものの、さほど厳重ではありませんでした。江戸幕府を震え上がらせた「島原の乱」の後も、再び農民からの一揆を恐れた肥後藩「細川忠利」から「全国から武具の取り上げしてくれるように」という提言も無視。あげくに島原の乱に加担した農民達には、乱の後に天草藩主に就任した「山崎家治」が、せっかく取り上げていた武器を返してしまうという状態ですね。各藩の取り組みに任せていたようですよ。
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江戸時代の刀狩り
3代将軍「徳川家光」までの「武断政治」は、農民よりも大名達に力をつけさせないようにと武士階級への締付けがきつかったのですね。その時は、江戸町民も1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は享保5年(1720)までは慣習として認められ、天和3年(1683)までは旅行・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていたのですよ。
しかし4代将軍「徳川家綱」の時代になると、振り袖火事や金山の発掘量減などで幕府財政の逼迫などが起きて、それまでの政治を根底から見直さなければ徳川幕府が成り立っていかないと事態になってきたのですよ。そこで玉川上水を作るなど大飢饉に対する新田開発というように「文治政治」がはじまったのですね。幕府の財政はすべて米の収穫高によるからですね。そうなると農業に専念してもらわなければならないので、武器など必要ではなくなるわけですよ。
天和3年(1683)に、地方の村頭・神主はオッケー、戦国時代以来の郷侍の家には祭礼時の帯刀を認めるという例外をのぞけば、江戸御用町人以外の帯刀を禁止、天和3年(1683)には江戸町民全ての帯刀を禁止という命令が全国までいきわたっていったのですよ。江戸時代も農民の一揆が何度も起きますが、弓矢・刀・鉄砲などは幕末まで自粛されて、竹槍・鎌・鍬などの農具という持物が暗黙の了解のようになっていったのですね。なんだか自粛しているというところが面白いですね。
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やはりゆるい結果になった刀狩り
そうなったら、時代劇でみる渡世人とかが刀を持っていたのはどうなるの?という話になってきますよね。実際のところ政令は立派なのですが、そのうちにお金持ちの農民や町民が「帯刀権」という権利を買って日常には帯刀しないまでも、大勢の農民や町人が刀を持っていくことになったのですよ。しかし「武士」との格差をつけるために「武士は二本差し」というところは崩さなかったようですよ。権利を持っていなくても隠し持っていた人は多かったみたいですが。
農民・町民が実は大量の武器を隠し持っていたという話は、5代将軍「徳川綱吉」の時代に「諸国鉄砲改め」を全国でやったところ、たくさんの藩で武士達が持っている以上の数の鉄砲を農民が持っていたということがあったみたいですね。
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