豊臣秀吉の刀狩り
時代劇では「いざ戦い!」となると、村の男の人たち総出で武器を持ち防具をつけて「エイエイオー!」というのが普通ですが、実は農民にも2種類あって、帯刀して苗字がある農民は「おとな百姓」と呼ばれて戦いに行き落ち武者狩りなどをして自衛にも頑張っています。その下に農業専門に働く「小百姓」たちがいたのですね。自前で「弓矢・槍・鉄砲」が準備できていたということですよ。だから刀は「一人前の男」という象徴でもあったのですね。それを取り上げようというので大問題になったのですよ。
第1条
百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条
取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条
百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
-ウィキペディアより-
刀狩りをした理由ってなに?
自前で武器を揃えられる村々は、お互いに「助け合い」の協定を結んでいます。確かに敵国からの攻撃にはありがたいですが、豊臣秀吉が天下統一で平和になった日本にとっては「気に入らない領主や役人がいたら、お互い協力してやっつけよう」という一揆の種火でしかないわけですね。そこで考えられたのが上記の法令ですよ。
上記のように、実戦での刀というのはあまり使用されることは少なく、矢で遠隔戦をして槍や薙刀を持って密集戦というのが主で、刀は「武の象徴」としての役割が強かったのですね。個人で身を守るため・村を守るためには使われていたのでしょう。
戦国時代以降になると「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」などの戦国大名たちは、実戦用ではなく趣味で名刀と呼ばれる刀を集め出します。それが『刀剣乱舞』のキャラクターになっていくわけですね。たしかにそんな名刀が戦いに使われていたら、現在残っているような美しい姿ではなかったかもしれないですね。
となると「刀狩り」というのはわかりやすく言うための、弓矢・槍・鉄砲を集めるためであり、刀を取るということは「象徴としての刀」を取り上げて「誇りを取る」という意味もあったのかもしれませんね。
実際の刀狩りの経緯
関白就任の頃にはすでに法令の骨組はできていたといいますよ。天正13年(1585)根来衆・雑賀一揆を制圧する戦(両方とも庸兵でも有名)で、参加した百姓の命を取らないという条件で武装解除させて農場に専念させる約束をします。同じ年の10月には高野山にも武装解除を命令して仏教に専念させるということをしていますね。高野山としては比叡山の二の舞いにならないためにもしょうがなかったかもしれません。比叡山焼き討ちの陣頭指揮をしていたのが豊臣秀吉ですからね。
「ルイス・フロイス」の『日本史』に書かれているのが、天正15年(1587)にバテレン追放令が出された肥前国(現・佐賀県と長崎県)でのこと。豊臣秀吉はキリシタンたちの反乱を予想して武器を隠さないように考えます。そこで刀の鑑定士を派遣して「名刀を買いに来た」と宣伝して、自慢の刀の価値を知ろうと集まってきた村人たちの刀の持主・銘を記録して、刀狩令を出した後に記録された16000本の刀を没収したということですよ。さすが豊臣秀吉という計略ですね。
刀狩りの命令が直接出されたのは、九州諸侯と淡路国の加藤嘉明をはじめとした近侍大名・武将の一部・畿内・近国主要寺社でしたが、天正18年(1590年)の後北条氏の殲滅後に石田三成あてに「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止して没収した。今後出羽・奥州両国も同様に命じる」という手紙を書いていて、すでに言わなくても全国に広がることを確信していますね。
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