イタリア統一
1848年、フランスの二月革命をきっかけに、ウィーン体制が崩壊するとイタリア各地で暴動が相次ぎました。これを見たサルデーニャ国王カルロ・アルベルトはオーストリアからイタリアが独立するチャンスだととらえ、オーストリアに宣戦布告します。しかし、オーストリア軍は圧倒的な力でサルデーニャ王国などイタリア諸勢力に勝利しました。
一度は敗れたサルデーニャ王国ですが、首相カヴールのもとで国力を回復。チャンスの再来を待ちます。カヴールが目を付けたのは、オーストリアと対立するフランス。フランスのナポレオン3世と密約を結んだサルデーニャ王国は、再びオーストリアに挑みました。
1859年、サルデーニャ・フランスの連合軍とオーストリア軍がソルフェリーノで激突。戦いはサルデーニャ・フランスの勝利に終わり、イタリア王国が成立します。
その後、普墺戦争の混乱に乗じてヴェネツィアを、普仏戦争の混乱に乗じてローマ教皇領を併合することでイタリアの統一はほぼ達成されました。
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「未回収のイタリア」問題の発生
1870年、ローマ教皇領を占領したイタリア王国は、翌年に首都をローマに移しました。この年までに、イタリア人居住地域のほとんどを統一します。しかし、まだオーストリア領として残されたイタリア人居住地域「未回収のイタリア」がありました。
「未回収のイタリア」と呼ばれる地域は二つ。一つは、アドリア海への出口にあたるトリエステ。ヴェネツィア共和国が支配を狙い圧力をかけた都市で、圧力をかわすため、トリエステはハプスブルク家の支配下にはいっていました。
もう一つは、アルプスへのルート上にある南チロル。トレントを中心とする地域で、オーストリア領インスブルックに通じるブレンナー峠がある重要地域です。イタリアはトリエステと南チロルを自国領土に加えるため、精力的に行動しました。ただし、南チロルはイタリア系住民よりドイツ系住民のほうが多い地域だったことに注意が必要です。
第一次世界大戦参戦と「未回収のイタリア」の回収
第一次世界大戦の前、イタリアはドイツやオーストリアと三国同盟を結びます。なぜ、領土問題で対立するオーストリアと同盟を結んだのでしょうか。その理由は、フランスの動き。フランスがシチリア島の対岸にあたるチュニスに進出したのを警戒したためですね。
とはいえ、「未回収のイタリア」問題が解決したわけではなかったので、オーストリアとの間に溝があったのは確かです。それに付け込んだのがイギリスでした。イギリスはイタリアに未回収のイタリアを与える密約(ロンドン秘密条約)をし、イタリアを三国同盟から切り離そうとします。それを知ったドイツとオーストリアが妥協しようとしました。しかし、イタリアは三国同盟から離脱。オーストリアに宣戦布告します。
アルプス山脈を挟んで、オーストリアとイタリアは戦闘状態となりました。だいたい、イタリア軍が優勢な状態で第一次世界大戦が終了します。戦勝国となったイタリアは南チロルとトリエステ(未回収のイタリア)を併合することができました。
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イタリアに残された領土問題
三国同盟を破棄したイタリアは、協商国の一員となり戦勝国となりました。しかし、国民の間には他の戦勝国に比べて「分け前」が少ないという声が出ます。イタリアの一部の政治家はユーゴスラヴィア領とされたフィウメ市もイタリア領とすべきだと主張しました。第二次世界大戦では、イタリアはドイツとともに戦い敗戦国となります。その時、トリエステと南チロルの帰属をめぐって、再び問題が発生しました。
フィウメ問題
フィウメはトリエステの隣にある街です。もともとは、スラヴ系民族が住む町でした。イタリアの海洋国家ヴェネツィアがフィウメ(リエカ)を支配したころから、イタリア人の移住が多くなります。第一次世界大戦後、フィウメはユーゴスラヴィア王国の一部とされました。
1919年、イタリア人ダヌンツィオは義勇兵を率いて勝手にフィウメに侵入。フィウメを占領してしまいました。このことは、イタリアの侵略行為として国際連盟で問題とされます。国際連盟での話し合いの結果、フィウメは自由市となりました。
1920年、ダヌンツィオはイタリア政府によって強制的にフィウメから退去させられます。ところが、イタリア国民の間ではフィウメを併合すべきだとする意見がかえって強まりました。
イタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握ると、ムッソリーニはフィウメを強引に併合してしまいます。フィウメがユーゴスラヴィアのもとに戻ったのは第二次世界大戦後でした。
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トリエステ問題
第一次世界大戦の勝利でトリエステはイタリア領となりました。第二次世界大戦が始まると、イタリアはドイツとともに連合国と戦います。1943年、イタリアでムッソリーニ政権が崩壊すると、イタリアは連合国に降伏してしまいました。
そのため、ドイツ軍はイタリアに侵攻。トリエステもドイツの占領下に入りました。このとき、ユーゴスラヴィアのパルチザンを率いていたティトーは、トリエステも支配下に置こうと考えます。ユーゴスラヴィア軍はドイツ軍を追い払い、トリエステを占領しました。
第二次世界大戦終結後、トリエステ市を含む北半分の地域は英米が、南半分をユーゴスラヴィアが支配することになりました。トリエステは西側と東側がとりあう、東西冷戦の最前線となってしまいます。現在、トリエステの南地域はクロアティア領となっていますよ。
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