日本の歴史江戸時代

金と政治の柵で失脚した江戸幕府老中「水野忠邦」とは?豪気闊達の忠邦の生涯を解説

4-1家斉の死

将軍を代替わりし大御所となり西丸で政治を動かしていた家斉が、天保12(1841)年閏正月に逝去しました。在世中は、家斉と側近たちが実権を牛耳り「西丸御政治」と呼ばれるほどで、将軍の家慶でさえ改革に着手できなかったのです。

家斉の葬儀などが終了した同年5月ごろに、忠邦は告発・弾劾という形で、「西丸御政治」の政治構造の核心を衝く行動に出ます。家慶の厚い信頼を得ていた忠邦は、大奥に対する粛清と人材の刷新や、西丸派の残党「三佞人」を処分。遠山景元、矢部定謙、鳥居耀蔵など改革派を糾合し、5月15日に「天保の改革」を宣言します。「享保の改革」、「寛政の改革」と並ぶ、江戸三大改革の一つが本格的に始まったのです。

4-2天保の改革とは?

天保年間に13年に渡って行われた「天保の改革」は、財政再建、社会・経済統制、風紀是正などを行う幕政や諸藩の改革の総称です。5月15日に家慶は幕府改革の上意を伝え、忠邦は幕府各所へ綱紀粛正と奢侈禁止を表明します。法令は数多く、「法令雨下」と呼ばれたほどです。将軍の支配体制を揺ぎ無いものと強化を目指し、内憂外患危機への対処も目論んでいます。

#1 風紀是正

1841年には、贅沢品や華美な衣装など過度な贅沢を禁止する「倹約令」をだします。歌舞伎などの寄席を閉鎖し、江戸三座を場末の浅草に移転させました。翌年には、人情本の為永春水や合巻の柳亭種彦が処罰され、歌舞伎の市川團十郎には贅沢品を揃えていると追放刑に処します。

忠邦自身も質素倹約を遂行し、常に綿の服を着ていました。しかし、お金を使う人がいなくなりお金が市中に出回らないため、江戸の火が消えたように閑散とし、庶民のストレスがたまり爆発寸前になります。庶民に強制力を示せたことは成功ですが…。

改革で庶民が苦しむ形になると、後に『遠山の金さん』のモチーフとされた遠山景元は、“町民に分相応の暮らしをさせ、江戸に活気を持たせるべき”と政策に猛反対し、庶民の信頼を経て人気者になったとか。裏切り者…?

#2 社会・経済統制

十組問屋や株仲間を物価の上昇の原因として、1841年に「株仲間の解散」の命令を下します。権力化で実力をだせない商人たちに、自由競争という活躍の場を与えて物資の流通を促し、低物価政策を実施し物価の安定を目指したのです。流通システムが狂い、景気の悪化を招き失敗。忠邦に株仲間の解散を諫めたり、江戸市中の改革で対立したりした「江戸南町奉行矢部定謙」が、目付鳥居耀蔵の暗躍で無実の罪を着せられます。処分を不服とし断食により死亡しました。

1843年には、天保の飢饉で江戸に流れた農民らを、農村復興を意図とし強制帰村させる「人返し令」もだします。故郷に戻し農業を営ませることで年貢を治めさせる目論見でしたが、江戸を追い出されたものが周辺で無宿や無頼の徒となり、治安を悪化させたのです。

#3 財政再建

1841年に金の量を減らし質の悪い貨幣を濫造する「貨幣改鋳」や生活に困窮する旗本並びに御家人の借金を帳消しする「棄捐令」も発令しています。「貨幣改鋳」の急な実施で、貨幣の信用が無くなりインフレを招いたのです。逼迫する幕府財政を立て直すどころか、「棄捐令」では武士に融資しない風潮が広がるなど信頼失墜という散々な結果でした。

#4 「上知令」による立て直し

天保14(1843)年9月に、江戸や大阪周辺の大名から領地を奪い、幕府の直轄地にする「上知令」を断行しようとします。地方への転封には引っ越し費用や領民への借金を国替え前に返済する義務など、巨額な資金が藩財政を圧迫すると猛反対。大名や旗本だけでなく、老中土井利位や紀州徳川家からも反対され中止となりました。

「上知令」の強硬な反対運動がきっかけで、天保14(1841)年閏9月14日に忠邦は老中を罷免されたのです。天保の改革は失敗に終わるも、第3代将軍家光のころなら通用しただろうといわれています。

ちょっと雑学

天保の改革の要因となったのは、家斉の55人の子女縁組による財政悪化もいわれています。子女縁組をした大名たちへの上知令を、豊かな地へという優遇措置が決定しました。この不平等には、有力な外様大名が激怒し改革の失敗に繋がったのです。

幕府の権力強化をアピールするかのように、67年ぶりに将軍家慶の日光社参を挙行します。ここまでするのには、江戸と大坂を直轄すると共に支配を強化し、危険視されていた外国から幕府を守ろうとの動きもあったのです。

現に、アヘン戦争でイギリスに清が破れたことに日本もヤバイと感じ、打払令は開戦を招く恐れがあると中止します。「薪水給与令」により、外国船に燃料や食料を与える命令をだしました。日本海から我が国を偵察する外国の動きから、西洋流砲術も取り入れ、大砲や鉄砲方の強化など海防増強に力を入れました。

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