
5.天保の改革後の忠邦

先ほどの説明の通り、天保の改革はほぼ成果を挙げていません。この結果は、幕府権力衰退を如実に示したのです。改革のリーダーが将軍家直結でなく、忠邦だったことも影響の一つで、改革は地に足が着いておらず出世や昇進に目のくらんだ賄賂男では、信頼を得られなかったことは言うまでもないでしょう。それでは、改革後の人生を見てみましょう。
5-1罷免されるも老中に返り咲く
改革時のあまりにも酷い倹約の実行で、恨みを持つ庶民から江戸屋敷を襲撃されるという未曾有の事態に陥ります。罷免から翌弘化元(1844)年6月に老中の首座に再任されました。弘化元(1844)年5月、江戸城本丸が火災により焼失。当時の老中首座だった、土井利位が再建費用を集められず、対外問題の紛糾も理由に再任が決まったのです。
忠邦自身も老中再任を歓迎せず、任命による登城は癪を理由に欠席します。しかし、若年寄の大岡忠固の使者がなだめ、6月21日に登城し仕方なく引き受けたようです。でも、昔のような覇気は無く、目付久須美祐雋の記録の中で、「木偶人御同様」とされています。その後、病気がちになり欠勤も増え、12月には癪を理由に約3ヶ月欠勤後辞職しました。土井や鳥居らから役職を奪い、天保の改革時の裏切りへの恨みはちゃんと晴らしていますが…。
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5-2在職中の悪行発覚による処罰
少し話が戻りますが、天保13(1842)年10月にクーデターデッチ上げ事件が起こり、高島秋帆の冤罪による死罪が決定します。弘化3(1846)年7月に再審により軽い刑となりました。この再審により鳥居耀蔵がターゲットに上がるも、忠邦にまで火の粉が飛び火し、3月9日には事実を解明せよと将軍のお達しがありました。
老中阿部正弘による政治的策動があったのか、事実無根を申し出る忠邦が聞き入れられなかったようです。在職中に不正があったとされ、加増から1万石と本地から1万石の計2万石を没収されます。5万石となった水野家の家督は長男で14歳の忠精(ただきよ)が継ぐことを許されました。隠居した52歳の忠邦には、下屋敷(中渋谷谷)で蟄居謹慎を命じられます。
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5-3晩年の忠邦
蟄居謹慎を受けた忠邦は、人々から自業自得や天罰といわれる、冷ややかな視線が浴びせられます。しかも、引っ越しは雨の日で、夜中にひっそりと行われており、連れも15人と侘しいものでした。当時の姿はやる気満々の改革時とは、想像を絶する哀れなものだったとか。
蟄居地の下屋敷側の稲葉家の辻番は、
「もののむくいぞ恐ろしき
今では栄耀栄華にあき果てて 早いちぜん(越前・忠邦)のめしも通らず」
と書いた狂歌が残っています。
忠邦は、詠歌や詩作を嗜みながら7年の蟄居生活を送った後、嘉永4(1851)年2月10日に、58歳で亡くなりました。その5日後の15日に蟄居謹慎が解かれ、死の公表は翌16日でした。息子忠精による、赦免願いは何度も幕府へ送られるも、許しがでたのは亡くなってからと切なくなる最後でした。
豪気闊達の男!水野忠邦は獅子奮迅の働きをするも哀れな末路だった
忠邦の遮二無二に生きた人生を追ってみると、“欲に塗れ、夢を手に入れるも、鳴かず飛ばずで終焉”します。幕府のトップに上り詰めるも、晩年は哀れな蟄居生活でした。しかし、暗殺された大老井伊直弼らに比べれば、とっても幸せな人生だったのかもしれません。