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日韓併合のスタート地点になった「日朝修好条規」とは?わかりやすく解説

アメリカから受けた屈辱を朝鮮王朝ではらす

日本から見れば、もともと朝鮮王朝は属国扱いをしていたので、不平等条約は当然の結果といえました。しかも、わずか20年前にアメリカの黒船を率いたぺリー提督によって開国させられ、さらに日米修好通商条約として屈辱的な不平等条約を結ばざるを得ない状況だったのです。その不平等条約の改正がうまくできない当時の明治新政府にとってはアメリカのかたきを朝鮮王朝で晴らしたといえたかもしれません。

日朝修好条規の不平等とは

日本政府と朝鮮王朝の間で結ばれた日朝修好条規は、日米修好通商条約を裏返したような不平等なものでした。すなわち、開国、開港とともに日本は朝鮮王朝の国内では治外法権、すなわち領事裁判権を持ち、在留日本人が犯罪を犯しても朝鮮王朝側では裁くことはできません。また、貿易における関税も朝鮮王朝には決めることはできなかった(関税自主権がない状況)のです。

朝鮮王朝は、日本が欧米緒大国に対して受けていた不平等がそのまま日本から受けたと言えます。当時日本では、井上馨をはじめ、多くに外交担当者が日本の不平等条約の改正に向けて努力していましたが、なかなか改正には応じてもらえなかったのです。

日朝修好条規以降の日本の朝鮮半島進出

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この日朝修好条規の締結によって、日本の軍隊幹部が朝鮮王朝に常駐することになりました。それを背景に、日本は、勢力を伸ばす大院君派と清国を頼みとする閔(びん)氏派との権力争いに乗じるようになったのです。実際に清国と日本は朝鮮王朝の政治に介入し、対立をするようになりました。

朝鮮王朝内の混乱と対立の末に日韓併合

そのような状況のなかで朝鮮半島に進出した日本軍は、一時閔氏の事大党の乱などによって軍隊を引き上げざるを得ない状況もありました。しかし、1894年に起こった甲午農民戦争をきっかけにして日本軍と軍の両者が派兵して対立し、ついに日清戦争に突入したのです。

その結果、清国に勝った日本は朝鮮半島における利権を独り占めすることになります。また、日本軍をバックとした独立党側勢力も衰退し、一方で閔氏の横暴さが批判を受けて閔氏は暗殺されました。さらに三国干渉によって日本に清国の両党半島の祖借権を返還させたロシアが清国に代わって朝鮮半島に進出を始めたため、日本との対立が起こったのです。そしてついには日露戦争になってしまいます。

しかし、日露戦争に勝った日本は、朝鮮王朝に完全な宗主国の立場を確立し、3次の日韓協約によって支配権を確立していき、ついに1910年に日韓併合条約によって朝鮮半島を日本の植民地としてしまったのです。

そのスタートになったのが、日朝修好条規でした。

不平等条約はいじめと同じで許されるものではない

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日朝間の交渉に端を発した江華島事件は結果的に朝鮮王朝の開国と不平等条約の日朝修好条規の締結という結果に終わりました。しかし、これは終わりではなく、日本の朝鮮半島から中国大陸への侵略へとつながっていったのです。現代社会では、ロシアがクリミア半島の自国領土への編入において批判を受けるなど認められるものではありません。日本も結果的には第二次世界大戦の敗北によって手痛い目にあっています。世界は力によって維持されるのではなく、弱い国の立場に立った思いやりのある支援が必要です。自国ファーストはいずれ自国に跳ね反ってくるでしょう。私たちもこの日本が再び弱いものいじめをする国にならないようによく政治を監視していきたいものです。

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