日本の歴史明治

日韓併合のスタート地点になった「日朝修好条規」とは?わかりやすく解説

江華島事件の発生はこうして起こった

江華島事件は、1875年9月に起こりました。当時の日本では明治維新後の明六の変で西郷隆盛らが政府軍を支えていた薩摩武士を中心とした政府軍が一緒に下野しています。そのため、それを機会に山形有朋らの発案で徴兵制を導入し、武士出身でなく、広く男子で一定以上の体格をした人であれば、兵士に徴兵される制度を作っていたのです。その新たな軍隊を訓練し、実戦でも西郷の薩摩の反乱であった西南の役に勝利してその軍事力を誇るようになっていました。

また、大久保利道が欧米を回っていた岩倉使節団から帰国したあと、国内産業の近代化に取り組みます。富岡製糸場の建設や国立銀行の設立など、軽工業を中心とした産業革命も起こっていたのです。

そのため、明六の変の際には中止された朝鮮王朝に対する征韓論でしたが、1875年当時には機が熟したととらえられていました。

したがって、江華島事件は偶発的に起こったように歴史教科書には記載されていますが、実際には日本が朝鮮王朝からの攻撃を誘った可能性も高いのです。

江華島事件の概要とその結果

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江華島は、朝鮮王朝に主府のあった漢城(現在のソウル)のある漢江の河口にありました。1875年9月20日に訓練と測量を行っていた日本海軍の艦船に向けて朝鮮軍が砲撃をおこなったことから武力衝突が起きています。日本の軍艦の雲揚号が、江華島の永宗島砲台と交戦したのです。

江華島事件以前に交渉はおこなわれていた

交戦以前にも日本政府は釜山において朝鮮王朝と大使などの担当者間で開国や朝鮮半島おきの航路研究のための測量などについて交渉がおこなわれていました。しかし、朝鮮王朝側は政府内の対立があり、明確な姿勢を見せていなかったのです。

朝鮮政府内では国王に父の大院君の支持者が交渉中止を求めていたためでした。一方、膠着した協議を有利に進展させるため、、日本政府でも大使などからは朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案も出されます。しかし、太政大臣三条実美が反対していました。そのなかで、海軍は「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦を朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣したのです。

そのため、江華島事件は日本政府が朝鮮王朝に対して早く交渉をおこなうように仕掛けた可能性が高いといえます。

この事件そのものは、わずか5日ほどで終わりました。日本海軍の火力兵器の威力が大きく、日本軍は上陸まで果たして終わっていたのです。

江華島事件の結果として日朝間の交渉は進む

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9月20日、日本の雲揚艦は朝鮮王朝の首都漢城に近い月尾島沿いに投錨していたところ、朝鮮王朝側は江華島の砲台から砲撃をおこなったのです。日本の雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領し、砲台を武装解除して、武器、旗章、楽器等を戦利品としました。この事件の両軍の被害は、朝鮮側死者35名に対して、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)で、日本側の完全な勝利だったのです。この江華島事件は、日本側の怒りを呼びましたが、交渉の結果、朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃した偶発的なものとして処理されました。しかし、この江華島事件の事後交渉によって、日朝間の国交交渉が大きく進展したのです。

江華島事件をきっかけとした朝鮮王朝との交渉

江華島事件が起きてから、日本の明治政府はすぐに朝鮮王朝に対して攻撃に対する賠償交渉をおこないます。実質的に日本に完敗した朝鮮王朝では、国王の父の親清国派の大院君勢力が進出し、王妃の閔氏勢力に対抗して日本に肩入れしたため、日本の思い通りに進みました。条約案はスムーズにまとまったのです。

この当時の朝鮮王朝では、韓流の時代劇でよく描かれているように、王朝内では常に勢力争いがあり、国王の父君の大院君(独立党勢力勢力)と王妃の閔(びん)氏勢力(閔氏の事大党勢力)が権力をめぐって争っていました。もともとの宗主国である中国の清国と通じていた閔氏の事大党に対して、強力な外国勢力の味方が欲しかった大院君の独立党勢力勢力が日本に便宜を図ってきたのです。

この両派の対立は、日清戦争で日本が清国に勝つまで続きました。

不平等条約の日朝修好条規の内容

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日本政府と朝鮮王朝の交渉は日本ペースでおこなわれ、朝鮮国の開国と日朝修好条規の締結という結果になりました。この日朝修好条規は、朝鮮王朝にとっては屈辱的な内容になりましたが、これまでの宗主国が清国だけから日本も宗主国になったことを意味しています。

すなわち、朝鮮半島内では、清国と日本が朝鮮王朝の主導権を争う形になったのです。

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