5-2窮地に追いやられる長州
長州勢を退去させる姿勢から、一歩も引かない朝廷に玄瑞も諦め、元治元(1864)年5月16日に長州へ帰りました。5月27日には山口へ7歳になる養子の粂次郎を宿に呼び、まるで最後の別れを惜しむように可愛がったとか。
転機が訪れたのは、同年6月に勃発した池田屋事件。好機が訪れたと、進発論が奮闘し、来島又兵衛や真木和泉らが隊を率いて京に上りました。玄瑞は、6月16日に三田尻港から海路で上方を目指します。
6月15日に「進発派」魁の来島又兵衛率いる遊撃軍が300の兵を連れ先発。長州の兵は3000で、京都付近の要衝三方面の、伏見と嵯峨、山崎を陣取りました。こうして朝廷を脅かし、進発への取次ぎを繰り返したのです。しかし、一橋慶喜は、長州藩の嘆願を受け入れません。それどころか、7月17日から、長州撤兵を通達したのです。
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5-3苦戦する禁門の変
憤慨する来島は武力行使を主張するも、冷静な判断をくだせる玄瑞は、世子・毛利元徳の到着を待つべきだとし嘆願を重ねるのが得策と反対しました。来島は玄瑞を「卑怯者」と罵るほど決起しており、玄瑞の意見は通らず襲撃が決まったのです。玄瑞は一言も発することなく、天王山の陣へ戻ります。
18日夜半から、福原越後率いる伏見勢、益田右衛門助率いる山崎勢、国司信濃率いる嵯峨勢の、三手に別れ御所を目指し進軍しました。総督は真木和泉で、監軍は玄瑞で、三方から御所に激突し、松平容保の凝華洞を攻撃する作戦でした。
5-4玄瑞の最期
伏見勢は大垣藩兵と激突し破れてしまいました。嵯峨勢には来島がおり、精鋭900は筑前藩の守る中立売門を突破し会津藩を襲撃します。この頃は、長州藩が優勢でした。前進するも、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が到着すると、戦局は一転したのです。御所を守る薩摩と会津藩の軍勢に、蛤御門の付近で撃破され来島が戦死します。500の兵を持つ山崎勢は、関白鷹司邸の裏門から突入するも、越前藩に阻まれたのです。真木は烈火に包まれた関白鷹司邸から脱出に成功し、天王山まで逃れるも自刃しています。
玄瑞と行動を共にしていた22歳の寺島忠三郎は、玄瑞に「もういいだろう。やろうか。」といい、玄瑞は「殿に迷惑をかけちゃいけん。ここで終わろう。」と、追い詰められた両人は、切腹して人生を終えました。玄瑞の最期を石田栄吉が語っています。脚部に弾丸を受けましたが、必死で参内する鷹司輔熙に縋りつき、嘆願を願うも叶わなかったようです。玄瑞の人生は25歳で終焉します。あまりにも早すぎる死でした。
長州勢は、200もの味方の遺体を戦場に放置し、敗走せざるを得ませんでした。参戦していた桂小五郎は、九死に一生を得て但馬地方に潜伏しました。この時の京の戦火は「ドンドン焼け」と呼ばれ、家屋3万軒をはじめ数多くの寺社や武家屋敷なども燃えています。
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25年と短い玄瑞の人生でしたが、長州藩にとって必要な人物だったことは間違いありません。
吉田松陰から尊王攘夷の思いを受け継ぎ、久坂玄瑞自身の死も、明治維新の原動力になったことは疑いないことでしょう。あまりにも才能豊かだったために、武士としての短くも生き甲斐のある人生を手に入れましたが、稼業の医師として生きれば違った人生が待っていたのではないでしょうか…。