2-2松下村塾へ入門す
玄瑞の入門を願う手紙は、巷で英雄視される松陰への挑戦状的な要素も含んでいたようです。青臭い意見に対し松陰は、「上っ面だけで、思慮が浅く薄っぺら、至誠の中から発する言説に非ず。」と無慈悲に扱ったのです。「自分の立場でできることを考えてから行動せよ。」と、医者なら医者の立場から何をすべきか考え行動すれば、成功へと繋がると教えたようです。大言壮語(たいげんそうご)なら、馬鹿でも吐けるとも…。
松陰の本心は、玄瑞の志気の高さに大きな期待を持ったようです。彼が反論して来れば本物と、あえて批判し突き放しますが、松陰が起こしたアメリカ使節暗殺計画に対する返事を見て冷却期間を置くため放置します。その後手紙で激論を繰り返し、約1年後に玄瑞が叶わないと認めた時に入塾が認められました。
玄瑞は、松陰から「防長年少第一流」と絶賛されるほど優秀な人材でした。高杉晋作と共に、松下村塾の「竜虎」、「双壁」と称されています。苦労人で優等生の玄瑞とは全く対照的で、晋作はプライドが高く頑張り屋だったとか。生涯ライバルだった二人と入江九一と吉田稔磨の4人は、「松下村塾の四天王」と呼ばれています。玄瑞は医学所「好生館」にも通っており、松下村塾には頻繁に顔を出す暇がなかったようです。
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3. 松陰の死と尊王攘夷の志を継ぐ玄瑞
長州第一の俊才だと玄瑞のことを認めた松陰は、18歳の玄瑞と松陰の末の妹で15歳の文を結婚させます。しかし、松陰は「安政の大獄」により、安政6(1859)年10月に処刑されました。義兄松陰の尊王攘夷の思いを受け継ぎ、萩藩を牽引する立場となります。
3-1文との結婚は同情だった?
松陰の妹文もお年頃で、松陰は結婚相手に玄瑞を考えていました。僧月性から桂小五郎を、勧められるも、玄瑞に惚れ込んでおり二人の結婚を決めたようです。一節によると、身寄りのない玄瑞に対する、同情だったとも。
中谷正亮に玄瑞の気持ちを聞かせるも、「器量が悪いから」と断ったとか。中谷は玄瑞を、器量で結婚相手を決めるなと嗜め結びつけました。一節によると、玄瑞は武家としての久坂家を守るために仕方なく、安政4(1857)年12月5日ごろに結婚したとか。あまりにも、文が可哀想すぎますよね。松陰が嫁入りする文に送った手紙で、「玄瑞は、防長年少第一流の人物にして、固より天下の英才也」と絶賛したようです。
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3-2 玄瑞遊学に出る
2ヶ月後に、医学修行のため自費で3ヶ月間の江戸遊学にいく許しを藩から得ます。文は寂しがったものの、皆から祝福されての旅立ちでした。途中3月中旬に京を訪れた頃、安政5(1858)年2月5日に日米修好通商条約調印への勅許を求め、江戸から老中堀田正睦が到着していました。玄瑞は全く知らなかったようですが…。
尊王攘夷派の梅田雲浜、梁川星巌などと会い、日々逼迫する政治情勢を語り合ったようです。実は、ご自慢の美声で詩吟も聞かせており、梅田は、『梅田雲浜と維新秘史』に印象を語っています。
その後、同年4月7日に、江戸麻布の長州藩下屋敷(現:六本木ヒルズ)に辿り着き、長州藩の村田蔵六(後の大村益次郎)の私塾「鳩居堂」に通ったようです。4月23日に幕府が大老に井伊直弼を就任させ井伊の独裁政治が始まり、日本鎖国の扉が全開する「安政の五ヶ国条約」が、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間で締結します。
7月25日に再び京に帰るも長州藩は、玄瑞らの行動に危険を感じ帰国を命じたのです。この時、松陰に手紙で相談し藩邸から去り、梅田雲浜のもとに潜伏しました。藩は直ぐには帰国させず、江戸で洋書の研究をさせます。
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3-3松陰「安政の大獄」に関わる
天皇の命令なしに幕府が開国したことに、尊王攘夷派の松陰は激怒。ここから、幕府の要人を暗殺することで事態の打破を狙った、松陰の言動や行動が過激になります。井伊直弼暗殺を企てたとの罪で、松陰は捕えられ投獄されたのです。長州藩は助けようとするも、自分の策に溺れる松陰の意志の強さに断念せざるを得ませんでした。
玄瑞に松陰から決起を促す手紙が届きます。江戸にいた高杉晋作、飯田正伯、中谷正亮らと血判し、獄中の松陰宛ての手紙を桂小五郎に託しました。江戸で「義旗一挙」は難しく、問題を起こせば藩主である毛利家に迷惑がかかるから、情勢を正視し動向を伺うべきだと促したのです。更に松陰は激怒し、絶好を宣言しました。残念ながら松陰は、江戸に送られ処刑されます。松陰は自分の死が日本の夜明けのスタートとなると見越しており、玄瑞による尊王攘夷運動のシンボルとされたことからレジェンドとなりました。