4.玄瑞ら奮励の日々
玄瑞は長州藩の尊王攘夷運動の魁となり、志士たちをひとつに纏めようと奔走します。文久元(1861)年12月には、玄瑞を筆頭に高杉晋作や桂小五郎など24人の松下村塾の塾生が集まった「一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)」が創設されました。長井雅楽が建議した「航海遠略策」による、公武合体論に藩論が傾倒していくのです。それに立ち向かう玄瑞たちは、奮励の日々を送ります。
4-1英公使館を焼打ちにす
文久2(1862)年4月に藩に弾劾書を提出した雅楽に対し、玄瑞らは「これでは松陰先生の死が無駄になる開国は認められない」と上京し藩論の転換を試みたのです。襲撃の機を逃してしまい、京で謹慎処分にされます。でも、桂小五郎らは攘夷をもって攻撃し、藩主毛利敬親に攘夷を力説させたことで、雅楽を切腹に追いやることに成功しました。
10月に、江戸に来た玄瑞は高杉晋作らと組み、攘夷血盟による「御楯組」を結成。11月に金沢で外国公使暗殺を企てますが中止になりました。12月12日の深夜に品川御殿山に建設中だった英国公使館を晋作らと焼き払います。幕府が80000両ものお金を使い建てた館は、灰になってしまったのです。
4-2長州藩アメリカ商戦を撃墜
藩は玄瑞のこれまでの功績に報い、文久2(1862)年10月に医業を解任し士格と上がる儒官に任命されるも、腐りきっていたため固辞し大組士へ一挙に昇格します。下関に出た玄瑞らは、細江の光明寺を本拠とした、「光明寺党」を作りました。京から逃亡していた、天皇権威に繋がる公卿山中忠光を迎え入れ、下級武士や浪人集団を脱した光明寺党は、文久3(1863)年5月にアメリカの商船ペンブローク号に砲撃を浴びせ気炎を挙げます。続いて、23日にフランス艦キャンシャン号や26日にオランダ軍艦メデューサ号を、下関から砲撃したのです。同年8月17日に、医者名「玄瑞」を捨て、「義助」と改名します。残念ながら、5月10日から行われていた、砲撃は長州藩の惨敗に終わったのですが…。
4-3奇兵隊となる光明寺党
惨敗続きの報告しか受けないことに藩主は激怒し、高杉晋作に妙案はないかと尋ねたとか。晋作は藩の過激な方針を飲むことができず、頭を丸め10年の暇を貰い、萩の山奥に引きこもっていた時でした。「奇兵隊」の設立を提案し、7日に光明寺党に農民たち有志も加えて下関で結成されます。後に、武士5割、百姓4割、その他1割の大所帯の軍隊へと成長したのです。この農民などを加入させたのは、玄瑞の案だったとか。
騎兵隊は、6月15日には、関門海峡を渡って小倉藩領沿岸を占領し、田ノ浦などに勝手に砲弾を設置するなど、素行には問題があったようです。その理由には、非協力的な小倉藩を懲らしめたから。しかも、この残酷非道の行動を見かねた幕府から、粛清役に中根市之亟を送り込むも、騎兵隊の隊員が斬り殺したのです。天皇権威を盾に、長州藩の行動は大胆不敵のやりたい放題だったとか。
5.玄瑞最期の時
Yūzan Mori – Library of Congress Prints and Photographs Division. CALL NUMBER: Illus. in H30 [Asian RR]. REPRODUCTION NUMBER: LC-USZC4-8727. http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3g08727, パブリック・ドメイン, リンクによる
長州藩は文久3(1863)年に発生した「8月18日の政変」で追い出された京の失地回復のため、上洛し「禁門の変」を起こします。薩長同盟を組んでいたはずの薩摩藩は、次第に会津藩と行動を共にするようになり、攘夷ばかりに固執する長州藩は窮地に立たされたのです。
5-1「8月18日の政変」で苦汁を飲む玄瑞
玄瑞の発案で久留米藩の真木和泉と共に企てた、「大和行幸(やまとぎょうこう)」により、長州藩は孝明天皇を操り人形のように扱い長州藩に都合の良い「偽勅」を発令するため利用します。かつて結ばれた「横断的連結」は、長州藩の暴走により崩れ、長州はアンチとなったのです。
三条実美や来島又兵衛らが唱えた進発論を押し止めるも、長州アンチらが退いた時に転じて、毛利定広の上京を請い、6月4日に進発令を発することに成功。福原越後、国司信濃ら三家老による藩兵を組織できました。8月18日の深夜に、薩摩と会津の兵により政変が起こり、大和行幸の延期と国事参政、国事寄人が廃止となり、長州藩は御所堺町御門の警備も解かれました。これが、長州藩が政局から追放された「8月18日の政変」です。
9月19日に玄瑞は、京詰めの政務座役の命を受け奮闘します。この政変で長州藩は我が藩には罪がなかったと、失地を回復したい旨を孝明天皇への嘆願書を送りました。しかし、元々攘夷論の理解者だった孝明天皇まで、この政変は朕の存意と「8月18日の政変」の正当性を認める勅を発し長州を危惧したのです。何度も長州の無実を訴えようと奔走するも、長州藩に関わるものは京に入ることすら許されませんでした。
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