室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代最初期の戦国大名「北条早雲」の生涯とは?わかりやすく解説

伊豆の支配

こうして伊豆一国を支配した早雲。早雲は茶々丸の暴政で苦しんでいた伊豆を救済するために重い税制を廃して四公六民(4割税金、6割農民のものという意味)の年貢を定めました。これに領民は歓喜して豆の小領主や領民はたちまち早雲に従い伊豆はわずか10日で早雲が安定して支配するようになったとされています。

ちなみに、今川家との主従関係も継続しており、三河の松平家(徳川家康の出身)と争うなど連携して統治していたことがわかっているんだとか。

伊豆をなんとか安定させた早雲でしたが、早雲は早くも次の目的を果たそうとしていたのです。

小田原城奪取

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早雲が伊豆を手に入れた頃。関東では山内上杉と扇谷上杉が河越城をめぐって長享の乱が勃発。扇谷上杉の上杉定正は早雲に対して援軍を依頼し、山内上杉と争うことになります。

しかし、上杉定正が落馬して死去すると早雲はささっと撤退。そのほかの関東の名門も次々と巻き込まれることになります。これを早雲はチャンスとみたかどうかはわかりませんが、早雲はこの時、とある夢を見たとされ、

「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、その鼠は虎になった」というもの。

どういう意味かというと、二本の杉は山内上杉と扇谷上杉の二つの上杉のことを指しており、この二つの杉を倒すと子年であった早雲は虎のような存在になれるというもの。

この夢を見て燃えたかどうかはわかりませんが、これ以降、早雲は南関東を制覇するために動き始めます。

1495年には相模国の小田原城を奪取。『北条記』によれば、早雲は小田原城主であった大森藤頼に贈り物を贈り、心を許して早雲と親しなったところで早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願いでます。

しかし、その勢子は屈強の兵であり、何の障害もなく領地に侵入した兵士は夜中に奇襲を仕掛け小田原城内は大混乱。あっさり陥落したのでした。

しかしこれは典型的な城盗りの物語で早雲の実力を示すための作り話と今では言われています。

早雲の内政

早雲がどうして日本初の戦国大名と呼ばれるようになったのかというとその経歴がまさしく日本人が思っている国盗り物語だったこともあると思うのですが、早雲は領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であったからでした。

早雲は小田原城を奪取した後も本拠地は伊豆韮山城においていましたが、1506年に小田原城周辺で戦国大名としたら初である検地を断行。さらには亡くなる前には虎の印判状を用いるようになり、この印判状のない年貢の取り立てを無効として命令は無効として代官による百姓への違法な取り立てを防止したのでした。

他には戦国大名の法律の分国法のはしりとされる早雲寺殿廿一箇条も制定。

中身は御成敗式目の影響がかなり強く、法律というよりも家訓に近いものでしたが、こうした早雲の内政の上手さや、農民に対してやさしい政治を行ったこともあって後北条氏は非常に安定。のちに関東を収めることになる徳川家康も後北条氏の影響が色濃く残っている関東地方を抑えるのに一苦労したのを見るとやはり、早雲のないせいがかなり良いものだったのでしょうね。

伊豆・相模の覇者へ

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こうして内政を整え伊豆と相模の西半分を獲得した北条早雲。そして最後の人生の総仕上げとして残りの東相模の獲得に乗り出すことになるのです。

ゴタゴタの隙に

小田原城を手に入れた早雲は以前から続いていた山内上杉と扇谷上杉の内紛をうまく利用しながら相模内での勢力を徐々に拡大。1504年の武蔵立河原の戦いでは扇谷上杉氏の援軍として参戦し山内上杉を打ち破りました。

しかし、その直後に越後守護代の長尾氏(上杉謙信の実家)が援軍に来たことによって反撃。早雲は長尾氏が援軍に来たときには消極的にはなるものの、越後に撤退した隙を見て江戸城にまで進軍。しかし、その最中で三浦半島などを治めていた三浦氏に攻められてしまい、今度は逆に小田原城にまで追い込まれることになりました。

三浦氏の討伐

一時的に劣勢に追い込まれたものの、上杉のごたごたによって敗戦から体勢を立て直した早雲は1512年年から反撃を開始。相模に残る主な勢力を三浦氏のみに追い込ませます。

そして相模平定の大仕事として三浦氏が治める三浦半島に侵攻。付け根にある三崎城に逃げ込み、相模の支配権をほぼ掌握しました。

しかし岬上は海に阻まれているまさしく堅城と呼べる城で早雲は鎌倉に入りながらこの三崎城を包囲していくことに。

しかし、早雲の巧みな戦術によって三崎城は陥落。三浦氏の当主であった三浦義同は自害し、三浦氏は滅亡。これによって早雲による相模平定がなされたのでした。

その後、相模平定が終わった少し後に早雲は病死。後を継いだ北条氏綱は早雲の伊勢氏から後北条氏に変更し、1590年の小田原攻めまで続く関東の覇権を手に入れることになるのです。

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